2022年12月 3日 (土)

「華々しき瞬間」久坂葉子

華々しき瞬間


久坂葉子



 南原杉子。うまれは火星日である。地球に最も近い軍神マルスの影響をうけ、最も強烈に、そのエネルギーを放射。戦闘的性質を有し、目的に対して積極的なれど、多難な運命である。その上、人生の終局に於いて、複雑な交叉点に、信号を無視して立脚し、自ら禍をまねく。


     一


 南原杉子は、突然小さな社会、つまり二組の夫婦の上に出現した。彼女の年齢も歴史もわからない。


 大阪近郊、南田辺のとある露地の奥、石の門柱と木の扉。そして踏石が三つ。格子戸の玄関。急な段梯子。きいろくなった襖。庭に面した六畳。壁にぶらさがった洋服類。隅の方にミカン箱。中に食器と台所用具。窓ガラスにぺったりと四角い麻のハンカチーフ。

 南原杉子は、二枚のトーストを食べ、牛乳をコップ一杯のみほすと、手早く洋服をきがえた。

 十時にビル街のあるビルディングの四階に、南原杉子はあらわれる。東京を脱出して三日目に、紡績会社の広告部の嘱託となった。彼女の仕事は民間放送に関するすべてである。まだ一カ月にならないが、彼女は関西のなまぬるいお湯の中に、東京の、いや南原杉子のにえたぎった血を流しこみはじめた。会社重役も、放送会社の関係者も、出演者も、南原杉子の驚異的な仕事ぶりに唖然とした。南原女史、彼女はしかし決してえばってはいない。親密に、無邪気に、大様に人々を接近させ、包容し、安心させる術を十分心得ている。

 南原杉子の生活力の旺盛さ。それは、誰でも知っているところである。今更、彼女の、生活のための生活をさぐったところで大した興味はないわけだ。


     二


 街の真中に川が流れているのは、いくら汚濁の水といえどもいいものである。近代的な高層建築や、欄干のある料理屋などが、少しも統一されていないまま水にうつる。ガス燈でもつきそうな橋近くに、「カレワラ」のガラス窓がみえる。やはり川に面していて入口は電車通り。喫茶店ではあるが、御客がやって来ても注文ききなどしない。

 南原杉子は隅の小さな丸テーブルの前で、さっきからかきものをしている。まるっきり知らない大阪へやって来て、最初あてずっぽうにはいった店が此処であり、珈琲は大して美味しいとは思わなかったが、店の人が商売人くさくないことと、川を眺めるたのしみとで、彼女は度々やって来ていた。カレワラという名前も少しは気にいっていたのかも知れない。

「お水をもう一杯ください」

 からのコップをもちあげて、スタンドの方へ声をかけた彼女は、その時どやどや二三人の客がはいって来るのに目をとめた。

「お疲れでしたでしょう。さあどうぞ。奥の御部屋でしばらく御休みくださって」

「あ、どうも」

「蓬莱さん、相変らずカレワラは森閑としてますね」

「そうなのよ。商売に馴れない者は駄目ですわね。でも私よろしいの、此処は御稽古にもって来いの場所なんですもの」

 その間に、水のはいったコップが南原杉子の前のテーブルにおかれた。

 客は正確に云えば二人なのだ。一人はここのマダムであること位、南原杉子もうすうすわかっていた。さて、年とっているのに見事、髪毛をちらかせて、でっぷりとふとった婦人。蓬莱とよばれたマダムのサーヴィスぶりに、悠然とこたえながら奥へゆく途中、ちらりと南原杉子の方をみた。南原杉子も彼女をみあげた。リード歌手谷山女史である。何度か会見したことがあるのだが、谷山女史の方は気がつかない。何故なら、南原杉子の容貌は非常に印象的であるにかかわらず、自分の歴史を自分でまったくおおいかくしているのだから、表面におくびにも東京時代の南原杉子をにおわせていない。谷山女史ともう一人のつれの男は、マダムにしたがって奥の部屋へはいった。南原杉子は、水を一度にのみほすとかきものをつづけはじめた。もはや谷山女史のことなど忘れている。が、やがて奥の間からきこえてきたピアノの音と、女の歌声はきいている。うたっているのはマダムにちがいない。そのうち、一人、二人、楽譜をかかえた若い女性がやって来ては奥へ通ってゆく。

 南原杉子が、かきものを終えて、万年筆を机上にころばせた時、「おお」と声がした。

「何だ、やっぱりあなただったの(実は気付いていたのだ)」

「さっき、わからなかった。髪の型がちがうとまるで違うのですね。相変らずいそがしいですか」

 南原杉子の傍の椅子へかけた男は、せわしく煙草に火をつけた。煙草を吸いに奥から出て来たようである。南原杉子も煙草をとりだした。

「ポルタメントつけすぎね。ここのママさんは趣味でうたをならってらっしゃんの」

「まあ趣味かな。でも関西じゃちょっと有名ですよ」

「谷山さんも落ちたみたいね」

 南原杉子は何気なく笑った。

「だけどいい声だ」

「だれ、ああママさん? 声のいいのは天稟ね。モーツァルトかジプシーソングか」

 男は黙っている。

「門外漢だから云えるのね」

 男は更に黙っている。

「御趣味拝聴って時間つくればいかが? スポンサーはアルバイト周旋屋」

「女史は何が出来るんですか」

「わたくし? パントマイム」

 男は笑った。南原杉子は男を笑わせたことをひどく面白がった。何故なら、この男と二三度会っていながら一度も男の笑いをみたことがなかったからだ。

 仁科六郎。彼は、放送会社につとめている。南原杉子は、仕事のことで、彼と事務的な会話をしただけである。

「ここの喫茶店、よく来られるのですか」

「たびたび。でもママさんとは話をしたことがないのよ」

「御紹介しましょうか」

「(興味ある? ありそうね)どうぞ」

 丁度、マダムが出て来た。上々の機嫌である。そこで、あたり前の紹介が行われた。

 南原杉子。仁科六郎。蓬莱和子。偶然、予期しなかったところに大きなつながりが生れてしまうことはよくあるものだ。その場合、過去になってから、発生の時のことなど別に問題ではない。何ごとでも、ごくありふれたつまらないところから出発するものだ。

 その日の三人はそれで終った。南原杉子は、珈琲代をハンドバッグにしまいこんでカレワラを出た。彼女の意識の上には、すでに、仁科六郎と蓬莱和子の存在はなかった。いつも巻上髪をしているのに、今日は長くたらしていた。巻上髪の自分を初対面の蓬莱和子にみせるべきであった。と、ふと南原杉子は思っただけである。彼女は、胸をはって道をあるき、ダンス・レッスン場へおもむいた。彼女は、週に三回、ダンス教師をしている。レッスン場では、赤羽先生になっていて、ダンスの教師だと、そこへ来る連中は思いこんでいる。別に、レッスン場でピアノを教えている。十人位の弟子もある。彼等はピアノの先生だと思いこんでいる。全く、そうに違いないのだ。

 南原杉子が、蓬莱和子のことを思い出したのは初対面の日から二三日後であった。いそがしくてカレワラに寄る時間もなかったのだ。真昼のサイレンと共に、エレベーターにとびこんで、放送会社へやって来た彼女は、受付のところで仁科六郎にばったり出会った。

「先日はどうも」

 南原杉子は簡単に挨拶して営業関係の人に会いにゆく。その時、蓬莱和子の機嫌のいい、そして流暢な喋り声を思い出したのだ。と、急に、南原杉子は彼女に会いたくなった。ものずきからである。会社の用事をすませ、狭い廊下を小走りに受付へ来ると、仁科六郎ほまだいた。

「そばでも食べに行きませんか」

 南原杉子は、そばと仁科と、そして蓬莱和子をならべたてて考えた。

「ちょっと用事があるのよ。今度ね」

 エレベーターの扉がしまった。仁科六郎は冷い顔をしていた。彼女は、蓬莱和子と仁科六郎の関係を考えた。

 カレワラにはいると、奥でピアノの音がしていて、マダムがリードを練習していた。お客にきかせるならジャズでもうたえばいいのに、南原杉子はそう思った後で苦笑した。一人も御客はいなかったのだ。カウンターの上の水仙は枯れかかっている。女の子が珈琲をいれながら、ママさんを呼びましょうかと云った。南原杉子はにっこりうなずいた。

「まあ、いらっしゃい。おまちしてましたのよ」

「先日は失礼、いそがしくって……

「そうですってね。六ちゃんが云ってました。一人で何でもやってらっしゃるんですってね」

「(六ちゃん。よほど親しい人とみえる)ぼんやりだから、仕事駄目なのよ。……いいお店。おたのしみね」

「あらいやだ。ちっとももうかりませんのよ。あなた東京の方ね。私、谷山さんの弟子ですのよ。あ、先達は、見えてたでしょう。ああして、月に一回レッスンに来て頂いてますの。関西の御弟子さんはみんなここへいらっしゃるのですよ。御店だか稽古場だかわかりませんわ」

 南原杉子は、長々喋ってくれる相手が好きだ。その間に他のことを考えていてもいいし、十分に相手を観察することも出来るのだから。

 ――一体、この人どんな生活しているのだろう。あれまあ、又谷山をほめている。東京では弟子がないもんだから、ひょこひょこ関西落ちしてるのに、おや、首のあたりに、かげりがある。随分の年かな――

「あなた、音楽なさいませんの」

「好きだけど、無芸なのよ」

「あなた、失礼だけど、お幾つ」

「年などはずかしくって申せませんわ(実際のところ、私はいくつになるのかしら)」

「あら、ごめんなさい。お若くみえますわ、で、おひとり」

「ええ」

「御家族は」

「東京」

「まあ、じゃたったおひとりなんですの」

「さあ」

 南原杉子は遂に笑いだしてしまった。蓬莱和子の質問がちっとも面白くないからだ。ところが、蓬莱和子の方は、こいつは男がいるんだなと思ったのだ。

「いいわね、おたのしみでしょう」

 南原杉子はますます苦笑した。

「東京はよろしいですわね。で女子大でも」

「いいえ、とんでもない」

「あら、……。私、戦前はよく東京へまいりましたのよ。日比谷、なつかしいですわ。あのさ、御菓子召しあがって、私、とてもあなたが好きになりましたわ。御ぐしの恰好、チャーミングですわね」

 南原杉子の方からは、何一言きくすきまがない。だが、きこうともしないでも、蓬莱和子は心に秘密しておくことが出来ない性質たちの人だと、彼女は察していた。案の定、

「お菓子おきらい? ビールお飲みにならない」

「のみましょう」

 で、二人はぐっとのみ、その後、蓬莱和子はますます喋りだした。二十年前に、自分は関西の学習院と云われている阪神間の学校を卒業し、すぐに結婚、今は、戦災にあった邸跡に、二軒家をたてて兄夫婦の家族と別棟に、住んでいる。里の両親は、戦後、相ついで死んだのだが、関西では有名な金持で、宮中の侍従武官某氏や、元外務大臣某氏と親類である。ピアノは二台とも土蔵にあって焼けのこり、その一台をここへ運んで来ている。自宅では、小さい子供に歌を教えている。夫の月給が少ないので、こんな店をはじめた始末。三年になる。それ等のことを蓬莱和子はいかにも斜陽族の現実のかなしさをふくめて喋った。

「谷山さんのお弟子の発表会が近くありますのよ。六ちゃんとききにいらして下さいね」

 やっと一段落すんだようだ。しかし、最後に出た仁科六郎の名前。それから又急テンポで蓬莱和子は喋りはじめた。

「六ちゃんとは、私は十年前からの知合いですの。とてもいい人で、あなたも御附合なさるといいことよ。私、とてもあの人好きなんですよ。あの人もね。私を好きなんですって。でもねエ、ホホホホ」

 いよいよ終りを告げるのかと、南原杉子は一息ついた。が、

「私ね、あなた、好きですわ。あなたの感じ、素晴しいわ、仲良くなりましょうね。一度、六ちゃんと三人で飲みましょうよ。私、うれしいわ。あなたのような方に御会い出来て」

 南原杉子は目の前に白い手を発見した。握手を求められたのだ。南原杉子は無造作に手をさしのべた。へんな感触だと思った。年増女のひからびた中に案外粘りっこい色気を感じたのだ。

「お子さんなくて、おさみしくありません?」

 南原杉子は、テーブルの下でハンカチを出し、へんな感触のあとを処理しながらたずねた。

「あら、ない方が楽ですわ。でも何故ないって御気付きになったの」

「わかりますわ、お若いですもの」

 話は終った。南原杉子はカレワラを出た。非常にこころよい。ビールのせいか。蓬莱和子の饒舌のせいか。いや、南原杉子は、ビールの味も長い饒舌も忘れていた。こころよいのは何故だろう。彼女自身仲々気がつかない。電車通りをすぎ、紡績会社の方へ曲った時、彼女は、そのこころよさが何であるか発見した。それは、仁科六郎の存在である。


     三


「ねえ、女史はよしてね」

「どうして突然そんなこと云いだした?」

「あなたは、仲々仮面を取りはずさないみたいよ。だから、私まで女史を意識しなきゃいけないみたいで嫌いや。(早く生の彼を発見したいものだわ)」

「じゃあ何て呼ぼう」

「阿難」

「アナン、それ愛称?」

「ううん。誰も阿難とは呼ばないわ。私、ひとりで阿難って自分に名前つけてるの(実は今ふと思いついた名前なのだ。阿難陀は男だったかしら)」

「どうして」

「何となく」

 仁科六郎は両腕に力をいれて、小麦色の肩のあたりを無意識にかんだ。抱かれているのは南原杉子である。

「ねえ、どうして此処へはいったのでしょう」

「わからない」

「あなたらしくないこたえね」

「もののはずみなんだ」

「ますますあなたらしくないわ。(先手をうたれたようだ)もののはずみって度々生じるんでしょう。しかも特定の対象に限らないのだ」

「じゃあ君はどうなんだ」

「阿難と云ってよ。私はもののはずみじゃない(本当はもののはずみかしら)」

「計画していたこと?」

「いやね。まるで、私が誘惑したみたい。唯ね、何かの働きがあって、斯うなったのよ」

「おかしな哲学だ。ロジックがないよ」

「もののはずみこそ、およそ非論理的よ」

 二人は笑った。そして強く抱擁しあった。南原杉子は、強く押しつけられている仁科六郎の唇の感触を、首筋に感じながら、蓬莱和子の存在が、仁科六郎と自分を接近させたことをあらためて考えなおした。蓬莱和子あっての仁科六郎なのだ。

「カレワラのマダムとはあるのでしょう」

「何故」

「だってお互に好きなのでしょう」

 彼女は洋服のスナップをとめながら、仁科六郎にきいてみた。返事はなかった。きいていない風をよそおっているのだと、南原杉子は直感した。


 駅でわかれる時、ふと何か云いたげな素振りをしたが口つぐみ、さっさとふりむきもせずに立去った仁科六郎の後頭部のあたりに、何かつめたさを発見し非常にひきつけられた南原杉子は、電車に乗ってから、瞬間、それがかえってさみしい思いにかわった。そしてあらためて、今日の出来事を思い浮べてみた。

 昨日の今日である。昨日、カレワラへゆき蓬莱女史に会い、その帰りに快感を得て、今日、仁科六郎に今までとちがった感情で会ったのだ。

「今日は私がおそばをさそうわ」

「ゆきましょう」

 そば屋で二時間話をした。大部分が放送の話である。放送は一つの芸術だと仁科六郎は力説した。彼は又、演出がいかなるものか語った。

「小説家は何枚かいてもいいんだし、絵かきはどんな大きさの絵をかいてもいいんだし、映画も演劇も、時間に制限ないのに、放送は時間に制限があるのね。何秒までも。私ぞっとしちゃうわ」

 彼は、時間の制限内に於いて、最も有効に一秒一砂うずめてゆくことが、むずかしいのだし、大切なんだ、と答えた。仕事の話では、お互に自分自身を披露しない。

「のみませんか」

 今度は仁科六郎が誘う。

「では、五時に、約二時間で私の仕事、かたづけます。カレワラで」

 仁科六郎はふっと戸惑ったが結構ですと答えた。南原杉子が、カレワラを指定したのは、蓬莱和子が居たら誘うという了簡ではなかった。彼女は今日不在なのだ。昨日、店の女の子と二三こと立話しているのをきいたのだ。五時から神戸に用があると云っていたのだ。

 南原杉子はダンスのレッスン場へいそいだ。髪毛をばらして、派手にルージュを塗り、五時五分前まで踊りつづけ、髪毛をまとめてカレワラへ来た。仁科六郎は川を眺めていた。仁科六郎の案内で酒場へ行った。酒場の女は、南原杉子を珍しげにみた。そして、言葉を珍しげにきいた。ビールとウィスキーをのんだ。

「女史は独身ですか」

「(みんな同じことに興味があるのね)私、などに誰も申込んでくれませんわ」

「結婚しようと思わないでしょう」

「ええ、まあそうね。私自信がないの」

「おおありの人じゃないですか」

「ちょっとまってよ。自信って、女房の自信がないわけよ」

「何故」

「男の人を安心させることが出来ないようですわ。主婦の務めは寛容でなきゃね。それなのに私はおそろしく我儘ですもの。結婚したら主婦の私は夫にほっとさせる義務があるのに、屹度、いらいらさせるばかりよ」

「経験もないのに」

「自分の性格で推測することは出来る筈」

「じゃ恋愛は」

「します。でも結婚しません」

「恋愛には自信があるのですか」

「あなたは理攻めね。恋をすれば、その日から、自信なんてありませんわ。生きてゆくこと。仕事には自信あってもね。恋をすれば盲目的になります」

「あなたが? 本当ですか」

「本当よ」

 南原杉子は、本当よと云いながらおかしな気がした。彼女は、自分を盲目的な女にならせることが出来るのだから、本当に盲目的になりきるわけではない。そのことに気付いたのだ。

「あなたは恋愛結婚なさったの」

「いや、見合い、一回の」

「何年になるの」

「四年」

「お子さんあるの」

「まだ。ほしいですよ」

 ふと、南原杉子は笑いを洩した。仁科六郎の視線に気付いて、

「いえね、あなたの恋愛はどんなのかと想像したの、可能性の限界を究めた上での恋でしょう。一プラス一は二になるのでしょうね」

「みぬきましたね。確かに一プラス一は二にしなきゃすまされない男です。すべてにおいて」

「詩人じゃないわね。やっぱり放送屋ね」

「あなたはどうです」

「私。自分の行動に計算なんかしないわ。一プラス一がたとい三になっても二に足らなくてもいいわ。割切れないものは確かにあるのですから」

「自分のことで割切れないものがあって、よく、生きてられますね」

「あら、割切れなさがあるから生きているのですわ」

「わからん。わからん」

 南原杉子は、この男と恋愛してはならないように感じた。その時、

「でも僕はあなたが好きになりました。僕は全く知らない世界に住む人のように思えるからでしょうか」

 二人は酒場を出た。

「強いんですね」

「酔えないことは悲しいですわ。少し位、いい気持なんですけど、私、時々、自分をすっかり忘れたくなるんです。前は度々そういうよい心地になることが出来たんですけど。音楽をきいても、景色をみても。でも、駄目になったわ。絶えず自分があるんです」

「僕はもともと人生に酔いを知らない男だけど。物をみる時に決して主観をいれてみませんね。僕は音楽でそれを知った。ノイエザッハリッヒカイトってやつですよ。それは、生き方の解釈法にもなっている」

「強い人ね。悪に於いておや」

 突然、仁科六郎の手と、南原杉子の手がふれあった。握り合った。とあるホテルの前であった。


 南原杉子は下宿の二階で回想を終えた。深夜である。彼女は、完全に仁科六郎を蓬莱和子からきりはなしていた。マダムの存在がなくても、仁科六郎と、ああなったと思ったのである。愛とは何であろうか。仁科六郎と、彼女自身は理解し合っていない。仁科六郎は、彼女の過去も、そして現在、どんな生活をしているのかも深くはしらない。彼女は、ある部分の彼女をそっとみせたにすぎないのだ。仁科六郎が、三割彼女のことを知ったとしても、実際は一割にもならないのだ。彼女も又、仁科六郎の大部分はわからないのだ。年齢は、三十五六だろうか。結婚して四年目、よくある男の部類か。否、彼女は否定してみた。そして否定したことが、自尊心の故でなく、彼に感じたものが、肉慾をはなれて成立する非常に純粋なものがあると思ったからなのだ。感じるだけでいいのだ。つまり、理解など恋愛には不必要なことである。

 南原杉子は、短くなった煙草を、灰皿にすりつけて、しばらく笑っていた。

 ――仁科六郎にひきつけられてゆく自分、つまり阿難、新しく誕生した阿難を眺めることは、煩雑な乾燥した女史、教師の生活を忘れさせ、本来の自分にかえることだ。それは、自らの慰安であり、インタレストでもあるんだわ――

 南原杉子は、寐間着にきかえて、ふとんを敷いた。

 ――阿難。恋をしなさい。燃えなさい――


     四


 谷山女史の関西の御弟子の発表会の数日前である。

 仁科六郎と、蓬莱和子と、南原杉子は二回目の三人会見をした。三週間目位だろうか。二人ずつではよく会っていた。仁科六郎と、南原杉子、つまり阿難の部分との関係は、いよいよ深くなっていた。然し、お互の孤立した生活をまもっていた。外泊はしない。仕事関係の時は、仕事関係の仁科と南原にすぎない。他人の眼のあるところでは、南原杉子の内部から完全に阿難は追いはらわれていた。蓬莱和子と南原杉子も女同志の親密を深めてゆくように外見ではみえていた。だが、南原杉子は、自分をさらけ出さなかった。たとえば、人生のこと、恋愛のこと、音楽のこと、蓬莱和子は相変らずの調子で喋りまくる。私、ノンモラルですの、夫以外の人と恋愛します。私、ヒューマニストですの、私、真実一路ですの。南原杉子はハアハアといってきく。たまに、あなたはなどときかれても、わかりませんわと云う。仮面の真実をたてにして、虚飾の真実を売ろうとしていること、南原杉子は苦笑していた。蓬莱和子は、南原杉子を案外深みのない女だと内心軽蔑した。だが、やはり、あなたは素晴しい人だとほめそやす。あなたに対しては真実なのよと云う。仁科六郎のことが度々話題にのぼった。いい方ですわと、南原杉子は云う。一度、蓬莱和子の視線と、南原杉子の視線が、仁科六郎のことで、しばらくぶつかったことがある。お互の心の中をよみとろうとしたのだ。蓬莱和子の年齢は、嫉妬を相手の女性の前であらわすことを、ひどくみにくいことだと解釈するまでに達していた。南原杉子は、あなたと仁科氏が親しいのをみて嫉けますわ、と云った。蓬莱和子はしばらく優越にひたった。

 仁科六郎と蓬莱和子と時たま会っていた。蓬莱和子は、南原杉子の出現によって、拍車をかけられたように仁科六郎に愛情をもった。蓬莱和子の真実の愛情である。仁科六郎は、蓬莱和子に、南原杉子を愛していると告げた。まあ嫉くわ、六ちゃん。でもあの人ほんといい人ね。それが蓬莱和子の答えであった。そして又、彼女は、仁科六郎に打ちあけられたことだけを南原杉子に告げたものだ。そこで南原杉子は百パーセント確信した。つまり、仁科六郎と蓬莱和子の関係である。有である。


 さて、三人の会見は音楽会評よりはじまった。蓬莱和子の案内したバーである。

「お杉、(いつからか蓬莱和子は斯うよびはじめていた)あなたは感覚のある方だから、音楽を御存知なくても批評でなしに感想おっしゃれますでしょう。きかせて頂けません」

「あら私、さっぱりわかりませんの、でもあなたの御声、素晴しいわね、いい趣味」

 蓬莱和子は、他の御弟子の批評を一くさりのべた。仁科六郎も口を出した。南原杉子は、にやにや笑いながらきいていた。

「六ちゃん。真中で何を黙ってるの、両手に花でいいじゃありませんか」

 蓬莱和子と、南原杉子は、音楽から遠のいてありふれた流行の話をしていた。

「洋服のことなんか僕わからない」

「あら、ごめんなさい。のけものにして、ねえ、六ちゃん。お杉の黒のスーツどう思う? ちっとも似合わないわね。お杉は、明るい色彩の方が似合ってよ」

 南原杉子は、黒がきこなしにくいものであることも、美人にしか似合わないことも承知している。しかし、二三日前、仁科六郎は、ひどく南原杉子のいでたちをほめたのである。

「僕はからきし色合のことわからないんだ」

「お杉が黒をきると澄ましすぎるわ」

 南原杉子は、にっと笑いながら、スーツの上着を脱いだ。真白い袖なしの絹のブラウス。誰でも、長い下着をきこんでいる季節なのだ。だから露わにのびのびした腕が、うす緑の電光のもとで、かなり刺戟的にみえて、しばらく、仁科六郎も蓬莱和子も黙っていた。南原杉子は、仁科六郎が、黒のいでたちをほめてくれなかったことに逆襲したのだ。

「さむくない。お若いのね」

「私、冬中、いつも上着の下はこうなのよ」

「活動的なお杉らしいわね」

 話がいり乱れて来た。随分のんだからである。スタンドをはなれて踊っている他の御客のあしもともおぼつかない。ジャズは甘さと哀愁をふくんで三人の間にもしのびこんで来た。

「お杉、ダンスできるの」

「ええ、あなたも?」

「私、しらない。六ちゃんと踊りなさいよ」

「女史、踊る?」

 南原杉子はたち上った。蓬莱和子はスタンドの中のマダムに例の饒舌開始の姿勢をとった。仁科六郎の踊りは全く下手の度を越していた。しかし、南原杉子は、その足のはこびに従順に踊った。蓬莱和子はふりむきもしない。けれども、背後を意識していることがはっきりわかる。南原杉子は左手を少しのばして仁科六郎の首筋のあたりにふれてみた。仁科六郎は右手に力をいれた。素早く唇と唇がふれ合った。

「六ちゃん。羨しいわね。お杉と踊れて」

 一曲終った時、ふりかえった蓬莱和子が、仁科六郎に片目をつぶって声をかけた。

「ママさん、私がリードするから踊って頂戴」

 南原杉子は、四十歳の蓬莱和子が突然はなやかにみえたので、彼女の肉体にふれてみたいと思ったのだ。

「まあ、うれしいわ。お杉。教えて下さる?」

 高い椅子からとび降りて来た蓬莱和子を、南原杉子は軽く抱いた。

「両手を私の肩にのせて、あしに力をいれないで、四拍子でしょう。曲にあわせて」

 南原杉子は、蓬莱和子のしなびた肉付きをウールのスカートの上から感じた。

「足をみないで」

 蓬莱和子は顔をあげた。目の下のたるみと、たるみがなす黒いくまと、額ぎわの細い皺とが、少しくずれかけた化粧を通して、はっきりあらわれているのを、南原杉子は観察した。しかし、彼女は、決して優越感を抱かなかった。何故なら、容貌は昔美しかったことを物語っているがすでに容色はおとろえている。肉体は貧弱で、感覚はまるで零。才智は浅薄。しかし、魅力があるからだ。妖気があるからだ。もてる女だと自負している蓬莱和子なのだ。一体、何ものが蓬莱和子を華美な存在にしているのだろう。南原杉子は、蓬莱和子に対して今までない興味が湧き上って来た。一曲終った。

「うれしかったわ。あなたと踊れて。うろおぼえに男足知っててよかったわ」

 南原杉子の態度は一変した。仁科六郎は、不可解な顔をした。それ程、急に南原杉子は、親しいやさしみのあるせりふを蓬莱和子に提供したのだ。

「あら、私こそ。これから度々踊って下さいね。あなたは素晴しい人ね、好きよ」

「わたくしも好きですわ。美しい人は好き」

 蓬莱和子は有頂天になったのだ。私は又一人もてたのだと。

「六ちゃん。やかないでね、女同士だからいいでしょう」

「おかしな人達だ」

 南原杉子は、スタンドの上のビールのこぼれたあとに、指を二三度たたいて、仁科六郎の前に三角形をかいた。そしてすぐ消してしまった。


 南原杉子は下宿の二階で、畳の上に又三角形をかいた。途端に彷彿と、阿難が浮んだ。

 ――阿難が居るんだわ。阿難は仁科六郎に恋をしているんだわ。阿難は、蓬莱和子を問題にしていないわ。阿難、お前は、南原杉子をどう思っているの?――

 阿難は答えなかった。


     五


「お杉は誰かと一しょにくらしているのよ。屹度。だけど、お杉にはスカッとしたところがあるから、アプレじゃないわね」

 蓬莱和子は仁科六郎に云った。彼は黙っている。

 ――僕達、(仁科六郎は自分と阿難を平然に僕達と考えてしまっている。そして又、意識の中に無意識にすでに阿難と呼んでいる)は、度々会っている。そしてお互に現実の相手を、知りあっている。そして又愛し合っているに違いない。だが僕は阿難について何一つ知識がないようだ。僕はきかない。彼女も云わない。又、彼女はワイフのことを、全く、どんな方ともききゃしない。蓬莱和子とのことは唯一度ふれたにすぎない。阿難には嫉妬心がないのか。それとも、単に刹那の快楽の対象としての僕なのか。いやちがう。そんな風にはどうしても感じられない。それに、彼女に男が居ないことも確かだ。彼女は新鮮。常に新鮮だから。だが不思議な関係だ。沈黙のうちに成立した恋人同志。愛してます、とさえお互に云い合ったことがない。沈黙のうちに信頼し諒解してしまっている。不思議だ。然しこれでいいのだ。まったく自由であり、かえって永続する愛だ。いや、まて、自由ではない。僕は妻の体を抱く時にふと阿難を思い浮べてしまう。それは無形の束縛で苦痛なのだ。阿難と僕。僕達は未来のことをさえ語らない。破局、そんなことは考えられもしないのだ――

「六ちゃん。ねえ嫌よ。この頃、いつもむっつりしているじゃあないの。あなた本当にお杉に惚れてしまったのね。私はもうあなたの路傍の石になってしまったのね。私、何もあなたと十年前に戻ろうと云ってやしないわ。でも私には何でも打ち明けてくれる筈でしょう。ああ、いやききたくないわ。わかってます。わかってるのよ」

 蓬莱和子は思いきり強く仁科六郎の頬を打った。仁科六郎は打たれたことを何とも感じていなかった。彼は阿難のことしか考えていなかったのだ。

 それは、三人の会見後、又二週間もたった日の午後十時。飲酒の後の露地であった。仁科六郎と蓬莱和子のその日はまだつづく。二人とも、しきりに飲むことを要求し、気づまりな表情で又のみはじめ、のみ終えた時、蓬莱和子の乗る神戸行の電車はもうなかった。

「家へ泊りに来なさい」

 蓬莱和子は度々外泊している。しかも、昨日も一昨日もだ。彼女はすぐに仁科六郎のあとに従った。蓬莱和子はまだ仁科六郎の妻を知らない。そして、電車に乗りおくれたことがよかったと思った。彼女は自信のある女性である。即ち、美貌に於いて。即ち才智に於いて。


 仁科六郎は歩行をゆるめた。

「どのおうち」

「いや、まだまだだ」

「じゃあ、いそぎましょう」

 蓬莱和子は機嫌がよかった。

「まだ遠いの」

「その角をまがればじきだ」

 仁科六郎の歩みはますますのろい。

「どうしたの、のみすぎたのじゃない」

 蓬莱和子は、先刻の気づまりな空気をさらりと忘れて、これから会う人の自分への信頼をたのしみにしている。それを感じた仁科六郎は苦々しく思った。彼は、ふと妻に同情したのである。

 薄暗い電燈の下で彼の妻、たか子は靴下のつくろいをしていた。突然の侵入者にいささかうろたえてお茶の用意をはじめた。

「御食事はまだでございましょう」

「あの、私結構ですのよ。ほしくないのですから、本当にこんな夜分御邪魔して」

「僕、食うよ」

 仁科六郎は、いつもたか子が食事をせずに、彼の帰りをまっていることを知っていた。夫婦が食事をしている間、蓬莱和子は傍で御喋りをはじめた。

「本当にいい御夫婦ね、うらやましいわ。いい奥様で、あなた御幸せね」

 食事が終った。仁科六郎は苦々しい思いをかくして、たか子にやさしく言葉をかける。たか子はそれを喜んだ。

 ――夫が私を愛してくれること他の女の人にみせるのは気持がいいわ――

 そして、蓬莱和子の巧みな話術に、最初抱いた恥辱のようなものもすっかり消されていた。たか子は絶対に夫を信じている。夫に愛情を持っている。そのことは蓬莱和子のまっ先に理解出来たことである。

「ごめんなさい。ねえ、わたし、ちょっと、あなたをうたがったの、あなたをよ、わるかったわ。ゆるして頂戴。あの方いい方ね」

 蓬莱和子が二階の部屋に案内された後、寐床をとりながら貞淑な妻は夫にささやいた。三時頃である。それまで三人は愉快に世間話をしていた。蓬莱和子は、彼の妻の信頼を得たことを確認していた。そしてすぐに眠りについた。おそるべき無邪気さである。彼女は、南原杉子にしか嫉妬しない。仁科六郎の愛撫の対象がたか子なら、彼女は別段何とも思いはしない。かえって、階下の様子を空想してたのしく思ったのだ。よくある仲人マニアの色情的快楽に似ている。おかしな優越をふくんで。

 仁科六郎は一睡も出来なかった。二階の女のことよりも、安心しきって眠っている妻のことよりも、彼の意識に阿難が笑っているからなのだ。蓬莱和子は南原杉子の名前を一度もたか子の前で口にしなかった。仁科六郎も勿論云わないでいた。彼は、話題に出なかったことにほっとしたのだが、かえって、わざとらしい蓬莱和子の態度を苦々しく思ったのだ。仁科六郎は、たか子の静かな眠りをさまたげたい気がした。そして、彼女の両眼に、唇を押しつけた。たか子は眠ったままであった。彼の中の阿難は、まだ微笑しつづけている。仁科六郎は、明日こそ、阿難の正体をつかんでしまうのだと、決意した。


 夜明け近い。南原杉子は、眠られぬ一夜をすごした。

 ――阿難、お前よく考えなきゃ。仁科六郎は今の状態をつづけていることに満足なのかも知れないけど、あの人には妻があるのよ――

 ――何を云つても駄目だわ、阿難は、既にレールの上を走っているのよ。ブレーキは持っていない。――

 ――じゃあ、南原杉子の行先は何処? ――

 ――阿難が、南原杉子をひきずって走ってゆくのよ。でも、阿難の行先もわかってはいない。目を閉じて走っているんだわ――

 ――あの人と、結婚出来ないのよ。いつかは……――

 ――云わないで。――

 ――阿難。私は恋をしている阿難を愛しているのよ。でも、でも、みじめになっちゃいや。みじめになる位なら……――

 ――いえ、出来ない。阿難は走ってゆく。どこまでも――


     六


 カレワラに、アネモネが一ぱい活き活きといけられてあった。南原杉子が、花屋におくりとどけさせたものである。

「おまえに花が贈られるとはね。どうも、おくった人の感覚を疑いたくなるよ」

「云ったわね、一度、会わせてあげるわ」

「素晴しい人だというけど、女なんてものは大方どれもおなじだよ」

「おんなじだったら、いい加減に浮気もあきたでしょう」

「大方同じだが、大方でないところを発見するのが面白いんだね、時にお前の方はどうだい?」

「ええ、あたしは相変らずですよ。あなたをのぞいた他の男には大いに興味がありますからね」

「まあせいぜいやったがいいね。だが、外泊が三日もつづいたとなりゃ、いくら、妻の浮気公認の亭主だと云っても、亭主としての義務上、一応心配してみるね、どこかで怪我か病気でもしてやしないかと思ってね。心中てなことはないと思うがね。やっぱり多少はお前とつながりがあるんだからね。ずるずるひもをたぐられて、俺に責任がかかって来るようなことなきにしもあらずだからね」

「御親切様ね。その位の御気持あるなら、せっせとかせいで下さいよ。月一万ぽっちじゃくらせませんよ」

「そりゃそうだ。だが浮気の話と別間題。俺の浮気は二時間で済むが、お前のは三日だからね」

 蓬莱和子とその夫建介は、暇なカレワラで無駄な云い合いをつづけている。蓬莱和子は、夫を知り抜いているつもりである。口では、浮気々々と云っていても、実は臆病で何一つ出来ないと思っている。実際のところは、建介は派手に女遊びをするが、一人の女性と長く関係したりすることを馬鹿馬鹿しく思っている。凡そ、愛情なんてものは、瞬間に感じるもので、瞬間が瞬間でなくなった時には、既に、アンニュイだと考える。その上、肉慾しかない。彼は又、妻に対して妻を一つの道具としか考えていない。道具は道具の性能がある筈、ところが妻は第一の性能の子供をつくることをしない。出来ないのだ。第二の性能、家の中を片付け、料理をつくって夫の帰りを待つことをしない。妻としては失格。だが、建介は妻の美貌を人から羨まれて来たことにのみ、妻の性能を認めてしまった。それも一昔。今は何も妻にはないのだが、しかし、戸籍上、夫婦であり、人の認める夫婦でもある。彼自身、それを認めているにすぎない。

「まあいいさ、お前は公園のベンチさね。共有物だよ」

 蓬莱和子が、ベンチと云われた侮辱に答えようとした時に、ドアがあいて、はれやかな南原杉子の声。

「御花届いて? ああ、あるわ、いいでしょう」

「まあ、お杉本当にありがとう。うれしいわ」

 蓬莱和子は椅子からたち上って南原杉子にちかづいた。

「花屋の前で、あんまりきれいだったもんで。ああ疲れた」

「おいそがしいのでしょうね。大部あたたかくなりましたわね」

 南原杉子は、自分達の方をみている男に気づいた。

「お杉。あたしのダンツクよ。さあさ。あなた、おまちかねの方よ」

 蓬莱和子は少し嫌味な笑い方をした。南原杉子は軽く頭をさげた後、

「ねえ、これ、あずかって下さんない? 私、ちょっとバタバタ出かけなきゃならないの」

 大きな風呂敷包にはじめて蓬莱和子は気がついた。何故なら、それまで南原杉子の容姿の観察にいそがしかったのだ。

「はいはい御預りしますわ。ああそうそう昨日六ちゃんのところへ泊ったのよ。奥様ってとてもかわいい方よ。仲がいいの、とっても」

 蓬莱和子は南原杉子の表情を探ったが、南原杉子は平然としていた。蓬莱和子は、少しがっかりしたのだ。だが、背後の夫に、昨夜のことをきこえがしに云ったことが面白く思えた。

「じゃあ私、失礼してよ。又来ますわ」

 蓬莱建介の方に目で挨拶をして、そそくさと出て行った南原杉子。その後。

「どうお」

「お前よりはずっといいね」

 蓬莱和子は別に腹をたてなかった。

「ねえ、あれどう思う。ヴァージンかどうか」

「俺の知ったことじゃない」

「ねえ、六ちゃんとらしいのよ」

「で、お前が嫉くというのか、くだらんね。ところで昨夜は、六ちゃんのところへ泊った。それをわざわざ云うあたり、お前の間が抜けてるところさ」

「どうして間が抜けてるんでしょうね。云ったっていいじゃないの」

「反応をみようとしたが、あにはからんや」

「ほっておいて下さいよ。つべこべつべこべうるさいったら」

 蓬莱和子は、南原杉子が仁科六郎とどんな交渉しているかということよりも、仁科六郎に対する彼女の感情を知りたいのだ。

 ――いい加減。私に嫉妬するなり、苦しんだり、それを私に信用ある私に、打ち明けようとすればいい。不気味な愛慾。アネモネの花――

 蓬莱和子は、南原杉子を少し憎みはじめた。南原杉子は、度々カレワラに現れるのだが、仁科六郎のことには一言もふれないのである。そして又、仁科六郎も蓬莱和子に沈黙。

「その包み何だい」

 建介は大きな箱の風呂敷包がまだ放り出してあることが気になった。

「何だっていいいわよ」

 蓬莱和子は、乱暴にそれを奥の部屋へ持ちはこぶと、すぐピアノの蓋をあけた。ピアノの音は間違いだらけだし、声はヒステリックにわめいている。

 ――案外、妻のいいところが発見出来たものだ――

 夫は苦笑しながらカレワラを出た。


 南原杉子は、午後の鋪道をいそいで歩いていた。楽譜屋から、レッスン場へむかっている。新しく輸入されたフランクの楽譜を買ったので早速ひこうとしている。彼女は歩いている時、あちこちみてはいない。正しい歩調で、まっすぐ前を凝視しているが、もう無意識のうちに、そのポーズが身についていて、頭の中では種々考えているわけだ。

 ――あの人に四日も会っていないのだわ。私は不安。阿難が不安なのだ。さみしがっている。蓬莱和子と昨日一しょなのだ――

 彼女は、放送会社の方へ歩く方針をかえた。その時、後から肩をたたかれた。

「阿難」


 傍の喫茶店の奥まったところに二人は向い会って坐った。仁科六郎は、紡績会社へ二度程電話をした。二度とも彼女は不在であった。とにかくどうしても今日会わねばならないと思っていたのだ。阿難も又会いたかったのだ。

「会いたかったのよ」

「僕もだ」

「何故かしら」

「僕もわからない」

「でも、会ってほっとした」

「そうだ」

 二人とも不安も疑惑も消えてしまっている。きく必要のないことはきかない。又云う必要のないことは云わない。これは仁科六郎の信条であった。南原杉子はちがう。彼女はきく必要がなくても相手の返答をたのしみたい。云う必要のない時も云ってみたらという好奇心がある。ところが阿難は、もう完全に仁科六郎を信じて疑わなかったから何も云わないのだ。阿難は、南原杉子と異質である。恋をする女である。嫉妬もする。だからこそ、仁科六郎に会う迄、心に不安があったのだ。向いあった今、それはすっかり消えている。

「阿難は幸せだと思うわ」

 阿難はにっこり笑う。仁科六郎も笑ってうなずいた。と、テーブルの下に置いてあった楽譜がふと床下に落ちて、仁科六郎のあしもとにころがった。

「楽譜?」

「ええ」

「誰の」

「阿難のよ。阿難、ピアノ弾くのよ」

「何故、今までかくしていたの」

「云う機会がなかったもの、阿難が弾くと云う時は、ピアノの傍でひきはじめる時よ」

「すごい自信だね」

「ええ、但し、近代もの以外は人の前でひけないのよ」

「きかせてほしい」

「即物的じゃないわよ」

「何でもいいききたい」

「何でもいいとはひどいわ。私、自分のひき方を決めてあるわ。いろいろ変えたけど。でも、ラヴェール、ドビュッシーあたりがひけると思うだけよ」

「誰に習った?」

「あなたの知ってる人、大方に師事したけどみんないやでよしたの。後は、レコード勉強と、本勉強よ」

「どうしてピアニストにならなかった?」

「あら、これからなるかも知れなくてよ」

 阿難が喋るのだ。恋をする女は恋人を前たして喜びにみちている。

「お暇なら、これからきかせてあげる」

「どこで」

 阿難は笑ったが何も云わずに冷いのみもののストローに口をつけた。


 ダンス場はまだしんとしていた。開場までに一時間ある。それに、今月はピアノのレッスンもない。

 入口の事務所でピアノの鍵をもらって来た阿難は、静かに、ぬりのはげたアプライトのピアノの蓋をあけた。

「水の反映」透明で、しかもかたくない。露がころがってゆくような、そして、音にふれたいような欲望を起させる。

「阿難、素晴しい人だ」

 仁科六郎は、弾き終った彼女の背後にちかづいた。

「阿難もよくひけたと思うの、だけどほめられて嬉しい」

 斜めに首をまわした阿難の頬は紅潮していた。

「阿難」

 仁科六郎は両手で阿難の肩を抱いた。阿難はしばらく酔っていた。だが、南原杉子にもどった。ダンスのレッスンがもうじきはじまるのだ。二人は外へ出た。六時に会う約束をして別れた。会う場所は、別れた角の喫茶店。常に同じ場所で会うことをお互に拒んだ。仁科六郎は人目がうるさいから。

 阿難はいつも新しい印象を与えられたり又与えたくもあったからだ。決った場所。決った時間。決った曜日。それは陳腐で倦怠の連続だから。

 南原杉子はいそぎ足でカレワラへゆき、荷物を受取って(蓬莱和子は不在であった)レッスン場に戻った。五月後にタンゴのコンテストがある。彼女は競演するつもりでドレスをこしらえたのだ。荷物をあずけ、靴をはきかえて彼女はパートナーと練習をはじめた。すでに赤羽先生である。五日間は教授休業である。三四組、踊りに来ている人は勝手に隅っこで練習している。最初、クイックステップを二三回踊り、脚を楽にさせておいて、エキジヴィションのタンゴにかかった。五時半まで彼女は踊りつづけた。その間、阿難の片鱗すらない。


「阿難、一体何を考えているの」

 仁科六郎は遂にたずねた。疑惑や好奇からではなく、又この女の実体をつかんでやれと云うのでもない。唯、理解したかったのだ。

「阿難はあなたのことを考えているの。考えていると云うよりおもいつめているの」

 実際、阿難の云うことは真実であった。然し、南原杉子は、そういった阿難を傍観しているに違いない。仁科六郎は阿難と南原杉子を混然一体として考えている。

「阿難、僕が若し妻と別れて、阿難と結婚しようとしたら」

 仁科六郎にその勇気はない。だが彼は阿難を理解する手段に始めて彼らしからぬ質問をしたのだ。それを南原杉子はみぬいていた。だが、阿難は答えたのだ。

「うれしいわ」

「じゃあ、阿難、いつか結婚しないなんていったこと嘘?」

「こんなにあなたを愛するとは思っていなかったの。阿難は始めて世の中に愛する人を発見したの」

「じゃあ、僕に接している一人の女性、僕の妻をどう思うの」

「御目に掛れば嫉妬するでしょう。阿難はにくむかも知れません。でも、今は、あなたの奥様、幸せな方だと思うわ」

「幸せ? だが僕は妻を愛しちゃいないんだよ」

「でも、奥様は愛されていると思ってらっしゃるでしょう」

「夫の義務は行っているからね。僕は妻をいつわっていることになる。みえない部分ではね。仕方ないことだ。苦痛。だが苦痛よりも阿難とのよろこびの方が大きいのだ」

「一番幸せなのは阿難です」

 阿難は二度その言葉を口にした。それは仁科六郎に大きな満足をあたえたのだ。阿難は、仁科六郎の頬に強く頬を押しあてた。

 ――阿難、どうして結婚して下さいと仁科六郎にたのまないの。出来ない。南原杉子。南原杉子は、仁科六郎と結婚したいとのぞまない。毎日の生活、習慣になった愛情の表現。それは退屈であきあきするに違いない。そればかりではない。自分の感覚をすりへらしてゆかねばならない。妥協はもっとも嫌悪するところの行動なのだ。南原杉子は、世の多くの女性を不幸だと思い嘲笑もしている。仁科六郎の妻に対してもだ。ああ、蓬莱和子。彼女は、彼女と彼女の夫との状態はどうなんだろう――

 南原杉子はふと笑いを洩したのだ。

「阿難、僕は阿難にはっきり云うことがあるのだ」

「なあに」

「蓬莱和子のことだ。僕と彼女は何でもない。一昔たった一度の交渉があったきりなのだ。僕はひどく酔っていた。それまでのこと」

 阿難ははっとした。けれど南原杉子は知っていたことなのだ。南原杉子は阿難にうなずかせた。

「云わずに済むことだ。しかし、僕は打明けておきたかったのだ」

 仁科六郎は、蓬莱和子と阿難(本当は南原杉子なのだが)との親密さが不気味であり、蓬莱和子がそのことを打ち明けているのじゃないかと戸惑ったのだ。だから、例の、頬をはられた事件までつぶさに語ったのだ。南原杉子は、仁科六郎を頬笑ましい男だと思った。そして、蓬莱和子を少し見降した。阿難はひとみをかがやかせた。

「うれしいわ、何でもかくさずにおっしゃって頂いた方が、阿難の愛は少しも変りません」

「阿難は蓬莱女史をどう思っているの」

「きれいな人だと思うだけよ。でも真実うりますには閉口。あなたと親しいつきあいらしいので、それはあんまりいい気持じゃなかったわ。でもね。阿難は、こう解釈するの、阿難とあなたの出会いより、あなたと彼女の出会いの方がさきだとみとめなければならないと思うの、それだけ」


 二人が駅で別れた時、雨が降り出した。二人は今日になって始めて、愛だとか愛にまつわりついたことを喋り合ったのである。南原杉子はそのことをあまり快く思わなかった。彼女は言葉が不便なものだと思っている。言葉を信じない。行動もまた信じない。愛だとか恋に対して彼女は、相手の肉体の存在がなければなりたたないと思っている。

 ――阿難、恋のために悩み、苦しむことは凡そ馬鹿げているのじゃなくて、私は、阿難に恋をしろとすすめたのだけど。私は、すべて信じないという信条より、一切の嫉妬や焦燥、苦悩を否定することが出来るのよ。だって、一体自分に対して自分をどれ程にも信じていないのだから。私は、南原杉子は、享楽と虚無とそして個人主義に徹底しているのかも知れないわね――

 南原杉子は、阿難に云いきかせはじめた。

 ――へへえ、阿難は恋するの、どこまでも仁科六郎を。そして悩むの、悩んでいるのよ。あの人とのこと、悲劇に終るように思うけれど、阿難はひたむきよ――

 ――阿難の部分がひろがってゆくのね。阿難の悩みが重荷になってゆくのね。もっともっと悩むとすれば、もっともっと恋こがれてゆけば、南原杉子はどうなるんでしょう――

 ――黙って。阿難は仁科六郎を愛してるのです。はっきり。強く。大きくよ――


     七


 審査が正当であり適確であることは、この世の中にめったにあり得ない。殊に、ダンスの競技会に於いては、甚しい閥があって、見事だと思われるものがおとされてゆく。赤羽夫人の場合、大阪に地盤もなく、審査員ははじめて知るダンサーであったが準決勝までいった。優勝はしなかった。審査員同志でかなりもみあったけれど、彼女の考案した新しいステップはかえって反感をよんだのだ。赤羽夫人は、パートナーを連れて早々に競技場をひきあげると、うさばらしに飲みにゆき、キャバレーへ踊りに行った。はやいテンポのジャズが演奏されていた。赤羽夫人はパートナーと共にすぐ踊り場へ。そして、フレンチホットのステップでぐるぐる旋回しはじめた。長い髪の毛にピン一本とめていないので、ゆるくカールされたそのさきの方が肩や背にみだれる。何曲目か踊りつづけた時、ふと、赤羽夫人の瞳が輝いた。長い衣裳のダンサーと頬をすりよせて踊っている男。蓬莱和子の夫建介である。かなりのんでいた赤羽夫人は、丁度舞台近くに踊っていたのだが、パートナーに片目をつぶってみせ、いきなり両手をくみほどいて舞台へあがるらせん形の階段をのぼって行った。競技場の姿のままなので、ブルーの長いドレスに銀の靴をはいており、胸のところに、準決勝のしるしの造花のばらがとめてある。彼女は、マイクの前で丁度はじまりかけた演奏にあわせて、「いつかどこかで」を唄い出した。時折酔った御客が舞台へあがり胴間声をはりあげる例はあるが、婦人のたぐいはおそらく始めてなのであろう。バンドは愉快そうに演奏をつづけ、踊っている人達は、赤羽夫人の声に、そして彼女の姿に集中した。赤羽夫人はうたをうたうために舞台へあがったのであろうか。否、彼女は、蓬莱建介に自分の存在をわからせようとしたのだ。しばらくして彼は気付いた。そして、ダンサーと一言二言語り合いながら舞台近くへ踊りながら近づいて来た。頬笑みながら、コケティッシュなまなざしを蓬莱建介におくる彼女。彼は戸惑うた。彼は南原杉子とわかっていても、舞台にいる人をジャズシンガーと思っているのだから、先入観念と、今の印象がごちゃまぜになって解し難いのだ。「いつかどこかで」が終ると、赤羽天人は、バンドマスターにちょっと首をすくめてみせ、らせん階段を降りた。パートナーは笑っていた。二人は椅子に腰かけ煙草に火をつけた。

「やっぱり南原さんですか、びっくりしました」

 蓬莱建介はダンサーをつれて赤羽夫人に近づいた。パートナーは驚いた。


 青い螢光燈がお互の顔を青白くみせる。南原杉子と蓬莱建介である。

「ママ、もう一本ぬいてくれよ」

 白い泡をふいたビールびん。赤羽夫人は衣裳がえしてすっかり南原杉子になっている。

「あなたと御話したかったから、あんな芝居しちゃったの」

「でも上手いもんだね」

 南原杉子は、南原杉子でないかも知れぬ。あたらしくコケットリーな女になっている。

「あなた、美しい奥様で、世界一幸せな旦那様よ」

「どうだかね」

「あなたなんか、浮気心もおきないでしょうね」

「御推察にまかせるね」

「じゃあ、今日の彼女にうらまれたかしら。御約束あったんじゃない?」

「僕は約束がきらいでね」

「あら、私もよ」

「ところで君にやいてるぜ、妻君が」

「あらどうして」

「六ちゃんだ」

「おやおかしい。わたくしが嫉いてるのに」

「じゃ、六ちゃんはどっちが邪魔なんだ?」

「そりゃわたくし。それからあなたもよ。でも、奥様、六ちゃんの思いに対して冷酷なんでしょう」

「人間の思うことはつまらんね。することもだよ」

「うそおっしゃい。あなたはまるで傍観者みたいにおっしゃるけど、奥様大もてだから、やっぱり内心は心配なんでしょう。美しいものは、そっとしまいこんでおきたい筈だもの」

「ふふ。君は、妻君の浮気の相手を何人知っているわけ」

「奥様浮気なんかなさらないわ。浮気をなさったら私、かなしいわ。私、奥様好きですもの」

「君は変態かい?」

「そうかもしれないわ。あなたが浮気なさったら、奥様のためになげくわよ。でも、ともかく奥様は、大もてね」

「それで僕が幸せってことになるのかね」

「誇よ」

「まあいいさ、どっちにしろ。ところで君と僕が浮気をしたらどういうことになる?」

「奥様はあなたが浮気しないものと思ってらっしゃるわよ。やっぱりあなたがお好きで、しかも、あなたに愛されているって御自信がおありですわ」

「まってくれよ。俺はそうすると、ひどく妻君に侮辱されてるようだぜ」

「何故」

「浮気しないなんか僕を人間並にしてないじゃないか。自分だけはさっさと浮気してさ」

「ほらほらやっぱりあなたは傍観者じゃないわ。あなたの最愛の人は奥様なんでしょう」

「何だかわけがわからなくなったよ。ねえ、それより、君と浮気していいかい?」

「と、奥様におききあそばせ」

 二人は哄笑した。南原杉子は、自分が口から出まかせに、でたらめなことを喋りたてたと、おもしろく思った。

 終電車で、南原杉子は下宿に戻った。彼女は蓬莱建介と自分の会話を思い出した。彼は約束を嫌うといって、彼女に再会の約束を強いたのであった。彼女は三日後、しかもカレワラで会うことを指定した。

 ――南原杉子。一体どうしようというの――

 阿難のおごそかな声である。

 ――阿難、黙っていて。おねがいだから、黙っていて頂戴――


 一方、蓬莱建介が自宅に帰ると、蓬莱和子は美顔術をやっている最中であった。鏡の前にすわって、べたべたするものを顔中に塗りつけ、神妙に皮膚をこわばらせていた。

「おい。お前の愛人とランデヴーしたぞ」

「あらそう、お杉とね、よかったでしょう」

 蓬莱和子は、ゆっくり静かに口をつぼめたなりこたえた。

「彼女と浮気したとしたら、おこるかね」

「どうぞ。だけどあなたが惚れても彼女はあなたなんかに惚れやしないわよ」

 頬の下あたりに、幾条ものひびが出来た。彼女は美顔術をほどこしている最中であることをわすれはじめた。

「よしよし、じゃあ賭けよう、何がいい」

「そうね、あなたに背広つくってあげるわ」

 彼女は、美顔術を中途でよさなければと、鏡をみかえって、あわてて手拭いで顔をふいた。

「じゃあ、お前は何がほしいんだ」

「真珠のネックレース。チョーカがいいの」

「浮気させてもらって、背広をもらう、しめしめだ」

「浮気出来なくて、真珠をかわされるあなたは、ちっとかわいそうだこと。あら、だけど証拠はどうするの」

「浮気したらしたと云うさ」

「あなたの言葉を信用しましょうか、いえ、私、お杉をみればすぐわかるわ、よろしい」


 蓬莱和子は万年床である。その敷布はうすぐろく、かけぶとんのいたるところにほころびがある。そういった彼女を、ひどく建介はきらっていたが、彼はもう何も云はない。家の中は不潔で、台所の鍋の中は、一週間も同じものがはいったままになっている。夫婦生活の倦怠は家の中に充満している。建介は自分の部屋だけ自分で片づけていた。ベッドを一台もちこんでいる。時々、和子は建介の部屋へ来る。彼女は夫を少しあわれんでみることがあるようだ。しかし、夫はあわれまれているとは気付かない。そして行動だけで妻にこたえる。その日は、階上と階下別々に寐た。建介は、南原杉子の言葉を思い返してみた。彼女は、彼が妻を愛しているのだと云い、妻も本当は彼を愛しているのだ、と云ったのだ。建介は自分に問う。

 ――俺は、ワイフが世間体に俺のワイフであってくれさえすれば安心なんだ――

 そして、寐返りをうつともう眠っていた。


     八


 待合せの時間よりも二十分も前に、南原杉子はカレワラにあらわれていた。蓬莱建介を待つのである。蓬莱和子は、御客の一人と親密に話をしていたが、南原杉子の方に朗かな声をかけた。

「お杉。まあまあ今日は、すっかりかわった感じね」

 南原杉子は、髪毛を派手にカールして、その上、御化粧もくっきりあざやかにほどこしていた。いつもの直線的な洋服ではなく、衿もとにこまかい刺しゅうのある絹のブラウス。そして、プリーツのこまかいサモンピンクのスカート。手には赤いハンドバッグ。白い手袋の下からちらつく、赤いマニキュア。

「先達ては御主人様に御馳走になりましたのよ」

「そうですってね。お杉、おいそがしいでしょうけど、ちょっとあれと遊んでやって下さいね」

 南原杉子は川に面したテーブルの近くに腰かける。蓬莱建介とまちあわせだとは云わない。冷いのみものを注文して、彼女は川をみる。

 ――仁科六郎、昨日あった時、ひどくやせたみたいだったわ。口数もすくなかったし、阿難は心配だわ――

 ――阿難、今日、斯うして別の男と媾曳することはいけないかしら――

 ――そうよ。阿難は罪を犯してるような気がするわ、たとい、今から媾曳するのが、南原杉子であっても、阿難はいやなのよ――

 ――だって、蓬莱建介を愛しちゃいないのよ――

 ――それでもいや、さ、彼が来ないうちに、帰ってしまいましょうよ――

 南原杉子は、少し腰をうかした。が、又煙草に火をつけて落ちついた。ドアがあいた。蓬莱建介がはいって来た。

「まあ、先達てはどうも御馳走様。今日はおひとり?」

 蓬莱建介は少し渋い顔をした。妻和子の手前。

「偶然ね。私もひとりよ」

 南原杉子は、にやにや笑う。

「ちょっとのぞいてみたんだ。おい水くれ」

 彼は女の子に水を注文した。蓬莱和子は、笑っている。彼は、二人の女性が何かたくらんでいるのではなかろうかと思った。蓬莱和子の客は帰ってゆく。

「ねえ、奥様と三人でのみにゆきませんか」

 南原杉子の言葉が終りきらぬうちに、

「私、今日、約束があるのよ、お杉、彼に附合ってやって下さいな」

 蓬莱和子は、今日はおひとり? と建介に問うた南原杉子の言葉に、内心こだわっていた。


 電車通りを横ぎったところで自動車をひろった蓬莱建介と南原杉子。

「おんなって実際わからんね」

 彼女は、声高に笑った。

「だって、待合せのこと奥様におっしゃらなかったでしょう」

「何故わかる」

「あなたの奥様は、御存じのことすべておっしゃる性格の方ですもの、私に待合せのこと、おっしゃらなかったわ」

「じゃあ、偶然の出会いになってるわけだね」

「そうよ」

 南原杉子の右手が、ふと蓬莱建介の膝にふれた。彼女はそれをわざと意識的な行為にするため、強く又彼の膝に手の重みをかけた。

「どこへ連れてって下さるわけ」

「僕のね、かわいい女をみてほしいんだ」

「それは興味」

 自動車は繁華街の手前でとまった。二人は横丁のバーへはいった。

「ひろちゃん、居るかい」

 中からばたばたと草履をならして出てきたのほ、色白のあごの線の美しい娘。小紋の御召しが似合っている。

「まあ、けんさん、ひどいおみかぎり」

 隅のソファへ彼はどっかりこしかけた。南原杉子もその隣にすわる。

「この女史、ジャズシンガーだよ」

 南原杉子は、マッチの火をちかづけてくれるその娘ににっこり笑った。

「おビールだっか」

 娘がスタンドの方へゆく。御客は一組。スタンドの中で、マダムは愛想わらいをふりまいている。

「ひろちゃん、どうだ」

「いいわね。大阪に珍しいわ、だらだらぐにゃにゃした女性ばかりですものね」

「いいだろう」

「もう少し観察してから、アダナつけるわ」

 ひろちゃんを相手に、二人はのんだり喋ったりした。大した話ではない。けれど、二人の親密度をました。

「あなたはスポットガールの何に魅かれるわけなの?」

 腕をくんで、少しさびた通りを歩いている時、南原杉子は蓬莱建介に問うた。スポットガールとは、彼女が先刻、ひろちゃんにささげた愛称である。たった一つの点。決して線がそれにつながってないという意味。蓬莱建介は、何のことだかわからないが、彼女のつけたアダナの音オンがよいと云った。

「魅力ね、魅力の根源はね」

「つまり、スポットだからでしょう。彼女は誰からも触れられてない」

「成程ね、僕も彼女にふれがたいんだ。いい女さ」

 突然、南原杉子はたちどまった。

「ねえ、あなたが好きになったわ、かまわないこと、私、好きになったら、もうれつ好きなのよ」

 南原杉子は、自分が心にもないことを口にしていることに、一種のよろこびを感じた。

「君は、スポットじゃないね」

「勿論よ。そしてあなたのスポッツでもないわ」


 ――如何して私から誘惑などしたのかしら。金をうるための娼婦。肉体的な享楽だけの芦屋婦人、彼女等は割切っているのに。けれど私は、金のためでも、肉慾のためでも、勿論、恋でもない。別の意味……。たしかに意味はある筈。だが、その意味は何の心の動きだかわかっちゃいないわ。蓬莱建介は、私を愛しちゃいない。単に肉慾の対象にしているのだわ――

 ――阿難がみじめだわ。仁科六郎を愛している阿難がみじめだわ――

 ――衝動的なものだろうか、いいえ、下宿を出る時、今夜は用事で帰れませんと云ったんだわ――

 ――阿難があんなにとめたのに、南原杉子はひどいわ――

 ――いいえ、阿難が南原杉子をこんな結果にさせたのよ。仁科六郎を愛する故に、かえって、蓬莱建介とのつながりを強いたのよ。何故……。いや蓬莱和子。彼女に対しての働きはないのかしら。それが最も大きいんだわ。彼女が、私に示す、いつわれる真実のマスクをはがしてみたいのよ。彼女の嫉妬と憎悪を露骨にうけたいのよ――

「ねえ、あなた、奥様におっしゃるおつもりなの」

「云ったらいけないのかね」

「どちらでもいいわ」

 二人は笑った。蓬莱建介は笑った後、背筋に不愉快な戦慄を感じた。不気味な女だ。と彼は思った。

「私から、云ったらどうかしら」

「六ちゃんに云いつけられるよ」

「奥様、何ておっしゃる? お杉と主人とが浮気しましたって、彼に云うわけ?」

「一体、君は、六ちゃんとどうなんだ」

「どうってきくのは愚問よ」

 愚問だと云うのは返答ではない。全く、あいまいな言葉であるが、しかし、愚問よと云われると、二つの意味を一つに確証してしまう。潜在意識のはたらきでである。南原杉子は、度々愚問よという言葉を口にすることがあった。

「じゃ、君は僕を好きだと云ったのは嘘?」

「好きだから本当よ」

「同時に二人を好きなのかい」

「三人よ。あなたの奥様もよ」

「でも、誰かを裏切ったことになるね。つまり、六ちゃんか、うちの妻君か、僕か。背信の行為じゃないか」

「背信、背信って何故?」

「君は少しおかしいよ。じゃあね、君が若し、六ちゃんともうれつに愛し合っていてさ。六ちゃんが他の誰かと、そうだ、僕の妻君でもいいさ、関係したとすれば、背信の行為じゃないか、嫉くだろ?」

「あら、背信じゃないし、私嫉かないわ。その場合を仮定したらよ。嫉くのは自分達の愛情の接点がぐらつくからでしょう。そういった行動。つまり第三者との交渉などは、たしかな愛情の裏付けにならないわ」

「じゃあ、君は三人、つまり、僕と、六ちゃんと僕の妻君のうち、一人以外は、愛情がないわけになるじゃないか」

「あなたは、私のたとえを私の現実だと思ってしまったのね。私の現在の場合、三人の誰とも愛情の接点をみとめていないのよ。私が好きでも相手は私を愛しちゃいないものね。あなたはおかしな人ね、スポットを好きなこと、それは、奥様に対して背信だとはおもってらっしゃらないし、私とこうなったことも別に心に矛盾がないのでしょう。それは、奥様との愛の接点がたしかにあるからなのか、あるいは、私のように、誰からの愛情もみとめていないのか、どちらかよ。百パーセント前者でしょう」

「わからないね、君の云うこと」

「私は、あなたがわからないことが、何か知っててよ。私が三人の人に愛情をもつということでしょう? だって何も一人の人以外に、愛情を抱いてはいけないことはない筈よ。それからあなたの心はちゃんと見抜けてよ。あなたは、奥様以外の女性が複数だとしても、単に肉体的な快楽の対象にしているし、スポットはまだ手が届かないだけ、いずれそうなるに違いないわ、そして、すぐにあきるのでしょう、わかっててよ」

「どうだっていいさ、理窟のこね合いはよしにしよう」

 蓬莱建介は黙るより他はない。

「人間って、割切れないものを割切ろうとする。へんね」

 南原杉子も、これ以上、理窟も云いたくなかった。彼女は、阿難がしきりに身もだえしはじめたことに、はっとしたのだ。

 ――阿難、私は、未来によこたわっている大きな事件をたのしみにしているのよ。そこへ到達するまでのことは、すべて手段として自分でみとめているだけよ――

「ねえ、あなたを好きなのは、あなたに迷惑かしら」

「別にね、僕だって好きなんだからね」

「だったらいいわ、いいじゃないの」

「何が」

「いえね、じやあ、度々会ってくださる?」

「こっちがのぞむところだね」

「じゃあ余計いいわ」

「だが、君困るだろ、六ちゃんとも会わなきゃなんない」

「あなただって、スポットやこの間の踊り子や、あら、又同じことのくりかえし、とにかくお互いの邪魔にならなきゃいいでしょう」


 二人は、会社の電話を教え合ってわかれた。朝、十時である。

 別れてから、蓬莱建介は実に妙な気がした。南原杉子。一体彼女は何だろう。わからないものには一種の魅力がある。そして、わかる迄は不安でもある。とにかく、一夜の享楽は享楽だったのだ。彼は会社へむかった。

 南原杉子は、洋服はそのまま、ただ髪型だけ、いつものように結いあげで会社へ。

 夕刻、仕事から解放された時、彼女はいそぎ足で放送会社へむかった。仁科六郎に会いたいのだ。彼への愛情を確証するためである。受付で彼の名をたずねた。二日お休み。昨日と今日。

 彼女は、ダンス場へおもむいた。彼の病気――多分病欠にちがいない――重いような気がする。ダンスを教えながら、何かひどくいらだたしい。早々にひきあげて下宿へ。

 南原杉子は二階へあがり、たった自分一人の世界になったと思った途端、つみあげていたふとんに体を投げて急に泣きだした。

 ――阿難、ごめんなさい。阿難、ゆるして下さいね。でも、ああなったことは阿難がさせたのよ。阿難の熱愛している仁科六郎の存在がさせたのよ――

 涙を流したのは、南原杉子であろうか。否、阿難が涙を流したのだ。

 ――阿難がかわいそうよ。どうして、蓬莱建介とああなったの。阿難はせめるわ、かなしいわ。阿難は仁科六郎だけで生きているのよ。阿難が宿っている南原杉子の肉体。それは勿論かりそめのものなんだわ。だけど、阿難が一たん宿ったかぎりは、仁科六郎以外の男にふれさせたくないわ――

 阿難は、南原杉子の肉体をゆすぶった。はげしく。南原杉子は阿難に抵抗しようとする。

 ――阿難、もうしばらく私を解放しておいて、阿難の純潔をけがしやしない。私は蓬莱建介を愛してやいない――

 ――ゆるさないわ。ゆるすことは出来ないわ――

 彼女は泣きつづけた。


 蓬莱建介は、わけのわからないものを背負ったなり、蓬莱和子の前に現われた。いつもの如く、うすぎたない空気のよどんだ家庭とも云えない場所。

「昨日はおたのしみだった? どう、思いがかないました? 御とまりのところをみれば、私が背広を買うことになったかな」

 彼女は、昨夜一晩寐ていなかった。

「いや、未完遂、昨夜は、友達に会ったのさ、軍隊の時のね」

「それは、御気の毒様」

 蓬莱建介は、妻をみた瞬間、浮気をした話を云ってはならないものと心に決めていた。彼はひどくむっつりと、おそい夕飯をたべた。蓬莱和子は非常に朗かであった。夫の言葉を信じたからなのだ。

「賭の期限をきめないこと、一カ月にしましょう」

 蓬莱建介は黙っていた。その夜、二階の彼の部屋に、蓬莱和子は姿をみせた。ひどく、やさしく。


     九


「私、子供が出来たらしいですわ」

 仁科たか子は、夫六郎の枕許にすわっていた。欠勤四日目である。流行性感冒にかかって仁科六郎はひどく高熱を出して苦しんだ。たか子は献身的に看護した。熱も降り坂。だが、まだ起き上ることは出来ない。うつらうつらゆめをみていた彼は、彼女の声にはっとした。彼は、阿難のことしか意識の中になかったのだ。

「それはよかったね。身体を大事にして」

 仁科六郎は、しばらくしてぽっつり云った。彼は子供をほしがっていた。けれど、最近は子供のことに関心を持たなくなっていたのだ。

「あなたこそ早く元気になってほしいわ」

 流行性感冒にかかったということは、平常から体が弱っていたのだと、たか子は解釈していた。彼女は夫を疑わなかった。夫婦関係の間隔がいつのまにかひろくなっていたのだ。

「今、何時だろう」

「二時すぎよ」

 仁科六郎は又目を閉じた。

「あなた、うわごと云ってらしたわよ」

「なんて」

「よくわからなかったけど御仕事のことでしょう。私、会社へ今朝電話しておきました」

「そうか」

 仁科六郎の瞳の裏に阿難が浮んでいる。夢で、ドビュッシーをきいていたのだ――阿難がピアノを弾いている。その背後に自分がたっている。突然、彼女が弾く手をやすめた。ところがピアノは鳴りつづけている。ふしぎでしょう、と彼女が笑う。そして、ピアノの傍からどこかへ逃げ出そうとする。自分が追いかけようとする。突然、彼女が両手で顔を掩い泣きはじめた。近寄ると、私を苦しめないでと云う。――

 仁科六郎は、阿難が泣いている姿を、現実にみたことがないのに、夢でみたことに何か不安を感じた。

「ねえ、どっちだと思う。男の子かしら女の子かしら」

「どっちがいい」

「女の子がほしいの」

「何故」

「私が、女にうまれてよかったと思うから」

 仁科六郎は、はっきり目をひらいて、たか子の顔をみた。

「ね、幸せそうでしょう」

 仁科六郎は、その言葉を率直にうけとることが出来なかった。

「気の毒だと思っているよ。仕事が仕事で、帰りはおそいし、酒はのむし、月給はすくないしね」

 彼は、そしてたか子の顔から視線をはずした。

「そんなこと。私は大事よ、あなたが」

 仁科六郎は、甘える気持でたか子の手をつねった。

「腹がへったから、何か食べさせて」

 たか子が台所へたった後、仁科六郎は阿難のことを又考えはじめていた。一分もしたろうか、彼は、両手をくみあわせて、自分の内部に発見されたことに驚いた。

 ――ゆるしてくれ、と僕は阿難に云っているのだ。たか子へ愛情がないとは云え、夫婦生活をおくっているのだ。それを僕は阿難にすまないと思っている。たか子に、ゆるしてくれとは思っていない――


 南原杉子は受話器を降した。仁科六郎はまだ休んでいる。会社の机の前の椅子にこしかけて、煙草を吸いながら、彼女の表面に現れた阿難を煙でかくそうとした。その時、別の卓上の電話が鳴った

「南原さん、御電話です」

 彼女は、紙片と鉛筆をもって、その電話にちかづく。

「もしもし、南原でございます」

「もしもし、蓬莱建介でございます」

「なんだ、あなたなの」

「どうして電話くれない?」

「あなただってくれない。待っていたのよ」

「きょう、きみの生活に、少し割こむ余地があるかい」

「ある。ガラアキ」

「六時」

「カレワラで」

「駄目、梅田のね、そら新しいビルの地下で」

「わかった」

 南原杉子はガチャリと受話器をかけた。阿難が、いたましいさけび声をあげた。


「不思議だね。僕が今迄抱いていた女性観がくつがえされそうな気がして来た」

 蓬莱建介は、南原杉子を、たった二時間だけの相手に出来なくなって来たようだ。今迄のように、二時間後に、これでしまいと決め、次はさらりとした気持で新しい女に自分をむかわせる。そして、又偶然別れた女に出会えば、出会った時に新鮮になれる。ところが南原杉子の一夜の後、彼女を、他の女性のように、簡単に処理出来なくなった。

「あなたは、スポットガールを何故私に会わせたのでしょうね」

 しばらく笑っていた南原杉子が突然話題を転じた。

「深い意味はないがね」

「そう、それなら、スポットガールのこと私忘れてしまうわね。ちょっと煩雑すぎて来たから」

「何が」

 南原杉子は答えなかった。蓬莱建介は、蓬莱和子の夫であるだけでいいのだ、と彼女は思った。

「ところで、君と僕の間を永続させる希望があるかね」

「永続? だって、あなたは私を深く好きじゃないでしょう」

「君は、愛されてもいない人に肉体を提供したと思っているのかい?」

「そうよ。だけど、私、あなたが好きなんだから後悔しないわ。どれだけ永続出来るものか、わからないけれどもね」

「僕に愛されたいとは云わないのかい」

「云わないけど、思うわよ。云えない筈よ」

「愛してるかも知れんぞ、六ちゃんと決闘するかも知れんぞ」

「おやんなさい」

 南原杉子は、故意につめたく云いはなった。冗談に対して、冗談でこたえかえすのは、つまらないと思ったからだ。その上、南原杉子は、仁科六郎の名前が、この空気の中に出たことを少し悲しんだのだ。阿難の部分が、既に大きくひろがっている。蓬莱建介は、南原杉子の表情をみておどろいた。

 ――こいつは本当なのかもしれない。うっかりすると、僕がワイフに強いている、蓬莱夫人の地位を、逆にワイフから蓬莱氏の地位をと、強いられる結果になりはせぬか。南原杉子は、自分の行動に於いて、まったくエゴイズムなんだし――

「すると、勝負は僕の負だね」

 蓬莱建介は、南原杉子との勝負を意味したわけだ。ところが、南原杉子は、仁科六郎と蓬莱建介との勝負にとった。だから、僕の負だと云った言葉を面白がって笑った。蓬莱建介は不気味な笑いだと思った。

 その日は泊らなかった。


 南原杉子は、下宿の二階で煙草をやたらに吸った。

 ――抵抗を感じたのだわ、阿難が、私に抵抗を感じさせたのだわ、そして、エクスタセの中に、はっきりと仁科六郎が存在していたわ。彼はひどく真顔だった。それは、私にとってよろこばしい発見なんだわ――

 ――何をいうの、阿難をいじめてるみたいよ。阿難ははやく仁科六郎に会いたいわ。会った時、阿難は、蓬莱建介と南原杉子のことを告白するわ――

 ――いけない。それはいけない。だけど仁科六郎に会う迄、蓬莱建介には会わないわね――

 ――南原杉子。あなたは無智な女だわ――

 ――阿難、私は無智な女かも知れないわね――


 蓬莱建介の帰りを、待つという気持で待つようになった蓬莱和子は、ピアノをたたいて大声でうたをうたっていた。南原杉子も仁科六郎も、カレワラに顔を出さない。いつでも、自分が真中につったっていないと、気が済まない彼女は、その二人の沈黙と併せて、夫の行動が案じられたのだ。彼女は、自分でおかしい程うろたえはじめた。三人からボイコットされている。彼女の心の中には、すでに、南原杉子へのにくしみが存在していた。

 蓬莱建介は終電車で帰って来た。黙っている。蓬莱和子の方からは、南原杉子のことを口に出しかねた。愛想よく、夫の着替えを手伝いながら、彼女の内部は、ざわめきがはげしい。蓬莱和子は、貞淑な婦人の持つ感情を、はじめて抱いたのである。


     十


 仁科六郎が出勤したのは、一週間ぶりの水曜日であった。彼は、喫茶店から阿難に電話をし、阿難は、しかけのスクリプトを持ったまま、すぐにその喫茶店へおもむいた。阿難は、南原杉子のことを仁科六郎に云うつもりであった。けれど、彼の顔をみた途端、口ごもってしまった。お互に話合ったことは、会ったことのよろこびにすぎなかった。そして、その日の午後七時に、二人は再会した。無言であった。抱擁は、すべて気づまりなことを葬ってしまった。阿難は、南原杉子のことも、つづいて蓬莱建介のことも、すっかり忘却していた。だから、仁科六郎の胸にすがりながら,自己荷責もなかった。阿難は酔っていた。仁科六郎も、妻のある自分を忘れていた。阿難に済まないと思ったのは、過去の真実であるにすぎなかった。

 阿難は、みちがえるようにいきいきとしはじめた。仁科六郎も又、健康を取り戻してから、そして、阿難との愛の交流をはっきり自覚してから歓喜の日常を送りはじめた。彼は、もはや妻たか子との夫婦生活にも苦悩がなくなっていた。阿難を常に思い浮べながら、たか子と相対することに抵抗を感じなくなっていた。南原杉子は、蓬莱建介とも時々会った。そして、享楽の夜を共にしながら、その時は、阿難を抹殺させることが出来た。つまり、南原杉子と、蓬莱建介との関係によって、阿難は仁科六郎との恋愛を絶対的なものと信じることが出来たからなのだ。

 蓬莱建介は、南原杉子への愛を認めた。然し、認めながら彼は、蓬莱氏を念頭においていた。そして時折、女給やダンサーの類とちがって、話をして面白い取得、妻和子にない新鮮さ、若さを、南原杉子に感じて、いい女に出会ったものだと心でつぶやいた。彼の愛とは、肉慾の中に存在するものである。そして、南原杉子を強いて解剖する必要はないと思っていた。不気味な女だけれど魅かれる。いつかはあきるだろう。唯、それだけであった。

 蓬莱和子は、三人が人間らしい喜びに浸っている日常を、唯一人、いらだたしくおくっていた。夫、お杉、六ちゃん。すべて、彼女から遠ざかっていたからである。


 ある日、蓬莱和子は、放送会社へ出むいた。仁科六郎を呼び出したのだ。

「どうして来なくなったの」

「病気で寐てたのさ。それにとてもいそがしいんだ」

「お杉も来ないわよ。お杉はどうして来ないの」

「僕にきいたってわかることじゃない」

「お杉と会っているのでしょう」

「うん」

 彼女は、間の抜けた質問をしたものだと思った。そして、はっきりと邪魔者にされた自分を感じて、おそろしく激怒しはじめた。

「私ね、何にもあなたとお杉のことを、とやかく云うつもりはないんですよ、私は、お杉が好きなんですからね。お杉に来てほしいのですよ。お杉に会いたいのですよ」

「だったら、彼女に云いたまえ」

「ええ、云いますとも」

 蓬莱和子は、ハンドバッグをあけ、伝票と共に、カウンターにお札をつきつけると、仁科六郎に挨拶もしないで喫茶店を出た。彼女は、自分が興奮している原因をかんがえてみるひまもなかった。そして、ただちに、南原杉子のオフィスへむかった。だが、オフィスの前まで行った彼女は、南原杉子を訪ねることが、非常に屈辱的な行為であると感じた時、さっさとカレワラへ戻った。

 ――お杉に侮辱される位なら、夫に屈従する方がましだ――

 彼女は、今夜、建介に南原杉子のことを、たずねてみようと決心した。

 ところが、カレワラのドアをあけた時、中から晴れやかな声がした。

「ごぶさた、ごめんなさい」

 南原杉子である。

「あらまあ、御久しぶり、どうなさってらしたの」

 言葉は、相変らずの真実性をおびているが、その表情には、もはやかくしきれない敵意識があった。

「何だかばたばたしちゃってて。二週間以上になるわね。ごめんなさい」

「心配したわよ」

 蓬莱和子は、南原杉子に自分のうろたえをみぬかれないかと案じた。そして、強いて快活に、

「うちの旦那様がね。あなたにとってもまいっちゃったらしいの」

「あら、御冗談、御主人にいつだったか、散々あなたのこと、のろけられちゃったわ」

 南原杉子、蓬莱建介が、妻にかくしていることを知っていた。蓬莱和子は、年下のものから、からかわれている気がして腹立しかった。

「六ちゃんのところへ、さっき寄ったのよ。六ちゃんは、とてもあなたを愛してるのね。すぐわかったわ。あなたはうちの旦那様からももてて、すごいじゃないの」

 南原杉子は、蓬莱和子が、しきりに自分を観察していることを愉快に思った。

「ねえ、あなたは、うちの旦那様どう思って?」

「いい方ですわ、いい御主人様ですわ、いい御夫婦ですわ」

「そうかしら、私、六ちゃんの夫婦は、とてもいい御夫婦だと思ってよ。あの人愛妻家よ」

 南原杉子はにこやかである。

「あなたは嫉かないの」

 南原杉子は、答えないで笑っていた。南原杉子は、仁科六郎の妻を知らない。知ろうともしない。彼女は、彼の妻のことを問題にしていなかった。阿難は、彼の妻に会えば、嫉妬するだろうから、知らない方が苦しみが少ないのだと思っていた。

「あなたはでも素晴しい方ね。あなたに、ひきつけられるのは、あなたの感覚ね」

 その時、南原杉子はふといたずらめいたことを考えた。

「一度、あなた御夫婦とのみたいわ」

 それには、蓬莱和子大賛成である。日はまだ決めることが出来ないが、近いうちにと約束した。蓬莱和子は夫の浮気が未完遂であることを感じた。そして本当に快活になった。


 その日の夜、仁科六郎と阿難は、ウィスキーを飲みながら、いつもになくおしゃべりをはじめた。

「阿難は、ピアノを弾く時、直覚が大事だと思うのよ。直覚は直感とちがうの、ある程度理解の上でなければ感じることの出来ないものよ。阿難は、今迄、随分自分の感覚にたよりすぎていたのよ。感覚には自信もてるのよ。でも感覚だけで物事を判断することは危険だと知ったわ。阿灘が若し、昔のままで、感覚的に物事を処理してゆくとしたら、あなたとの恋愛は永続出来ないでしょう。阿難はあなたを直覚出来たから、幸福をつかめたのよ。時折、そりゃさみしいと思うわ。でも阿難は、あなたを知って、あなたと共に、こうして居られることが。阿難は言葉で云えないわ、阿難は作曲してみるわね」

「阿難、有難う、僕は嬉しい」

 仁科六郎は、阿難の言葉がまだ終らないうちに、力強く云った。

「阿難、僕こそ幸せだ。僕達のことは、おそらく僕達しかわからたい世界かもしれない。僕達の間だけに存在する世界なんだ。お互に、この世界を大事にしようね」

 阿難は大きくうなずいた。彼女は一つの問題を仁科六郎に呈しようとした。ところが、それが南原杉子の働きのように感じたので、云わずに終えた。つまり、その世界が、肉体をはなれて存在するのか、という疑問である。今、お互に、肉体的な交渉を断った場合、その世界はぐらつかないものか? それは疑問である。


 下宿の二階で、南原杉子は夜を徹した。

 ――阿難の愛は、南原杉子の肉体を介さないでも存在します。でも、そんなこと、申出るのは嫌です。あまりにも阿難はみじめよ――

 ――仁科六郎の返答をききたいのだから――

 ――よして下さい。その返答がどちらであっても阿難はあわれです――

 阿難は懇願する。

 ――蓬莱建介との関係を断って下さい。彼との関係で得たことは、大きいでした。つまり、阿難と、仁科六郎の世界は絶対のものだったのです。確証を得たのです。それがわかったのだから、もう蓬莱建介の必要はないわけでしょう――

 ――阿難、だけど、蓬莱建介に興味をもったのは、蓬莱和子の存在があったからなのよ。彼女の真実、彼女の妖気。彼女の自信の根源、すべてまだわかっちゃいないのよ。勿論、そんなことよりも、[#「よりも、」は底本では「より、も」]阿難と仁科六郎との愛情の確証を得たことの方が大きな発見だったことは間違いないけれど――

 ――阿難がかわいそうです。阿難が抹殺されてなければならない時間があるということは、しかも、仕事の時でない。享楽の時なのよ――

 南原杉子は、阿難の申出を拒絶することが出来なくなった。南原杉子は、がく然とした。阿難が、彼女のすべてになってしまったのである。そして、阿難のすべては仁科六郎なのだ。蓬莱夫妻は存在しないのだ。


 その夜、同じ夜、蓬莱建介夫妻は語り合っていた。

「お杉とあなたは何でもないのね。さあ、真珠を買って頂かなくちゃ。だけどもう一週間あるわ、一カ月の期限にね、そうだ、お杉が一度一しょにのもうと云ってたのよ。三人で。来週の土曜日、大宴会しましょう。カレワラをかしきってね、七時頃から、そうそ、六ちゃん夫婦も呼びましょうよ」

 蓬莱和子ははしゃいでいた。彼女は、やはり蓬莱建介の妻であったのだ。蓬莱建介は、妻を欺いている形になってしまった。

 ――今更、浮気しましたとは云えない。真珠を買ってやらなければ。だが安いことだ。彼女はもう僕だけのものになりそうだ。案外いい奥さん。さて、しかし、土曜日は、おそろしいことになりはしないかな――

「ねえ、あなた、背広買ったげますわね、浮気出来なくて御気の毒でしたもの」

 実際、蓬莱和子は、その夜部屋の中を片附け、御馳走をつくって夫の帰りを待ったのである。安心して、信頼して、そして彼女は、夫を愛していることをはっきり気付き、そのことを喜んだのである。

「ねえ、私、カレワラよすことにしたわ。そしてちょっと骨休みしてから、うちで、御弟子さんをふやして御稽古するわ。丁度、今うり時らしいから」

 蓬莱建介は苦笑した。彼は、妻和子を今迄にないかわいいものと思った。だが、彼は別段浮気をよそうとも思わなかった。

「おい、来いよ」

 彼は、二階へあがる時、蓬莱和子に声をかけた。

 ――ゆるしてね、あなた。私、今迄さんざ浮気をしたけれど、誰も愛したのでもないの、若くて美しい自分を知る喜びだけだったの。――

 蓬莱和子は、夫建介の背広をプレスしながら、心でつぶやいた。


     十一


 蓬莱建介は、来る土曜日の夜までに、南原杉子に、ぜひ会っておく必要があると思った。そして電話をした。南原杉子は不在であった。又、電話をした。又不在であった。電話をくれるように伝えて下さい。だが、電話はかからなかった。又、電話をした。彼はもう、二人の関係に終止符が打たれたことを感じた。

 三四日すぎた。蓬莱和子は、招待のことをわざわざ南原杉子の会社まで知せに行った。南原杉子は、愛想のいい蓬莱和子に対して、仕方なくほほえんだ。

「夫はね、あなたにふられてしょげこんでるのよ、私、あんまりかわいそうだもんで、これからちょっとサーヴィスしてあげるつもりなのよ。御店をうることにしたの。私、本格的に、声楽の勉強をしたいしね。でも、お店やめてもあなたと御つき合いしたいのよ。私の気持、うけいれて下さるわね。あなたに対して私、真実よ。それでね、土曜日に、あなたをおまねきするつもりなの」

 南原杉子は、例の調子の真実らしき表情や言葉に、反撥も疑問もいだかなかった。その上、彼女は、蓬莱和子から憎悪の言葉を浴びたいと思っていたのに、あてがはずれたことにも決して失望しなかった。

 ――蓬莱和子は、どっちみち心理に変化をきたしたのだわ。私の出現の結果、南原杉子と蓬莱建介の関係の結果にちがいないのだわ。もう、この一組の夫婦に、完全に関心をもたなくなったわ。いや、それよりも、阿難が全面的に、南原杉子を掩ってしまったからだわ――

 蓬莱和子は、仁科六郎も招待するものだと告げた。けれども仁科夫人を招待するとは云わないでいた。

「六ちゃんに、あなたから伝えて下さいませね、ぜひ、カレワラへ七時にね」

 蓬莱和子は、南原杉子に対して憎しみだけは依然として内部にもっていた。そして、土曜日に、南原杉子が、うろたえた姿を想像してみた。蓬莱和子は、南原杉子と仁科六郎の恋愛を認めていたからなのだ。そして、夫婦のつながりが、案外強靭でゆるがないものであることを、南原杉子にみせつけたかったのだ。彼女は、仁科夫婦をみて、嫉妬する南原杉子を考えていたのだ。


 仁科六郎と会った阿難は、土曜日の招待の話をした。

「他人の目のあるところで、あなたに接するのはとてもいやよ。でも、行きたくないけど行かなきゃならないわね。阿難は、仮面かぶらなければならないの、阿難は、阿難をその間葬ってしまうのがかなしいわ」

「僕だって行きたくない。だけど行かねばならないね、僕達の間が永続するように、ありのままの姿を、他人の前にさらけ出すことはさけなきゃならないよ。とにかく、行こう。阿難は、蓬莱氏を知らないだろう? いい人だ」

 瞬間、南原杉子が表面にあらわれた。

「一二度、カレワラで御目に掛ったわ」

 沈んだ声であった。阿難は何か云いたいのだ。告白。だが、南原杉子は懸命に押えた。


 蓬莱建介はいよいよ明日に土曜日がせまったことを知った。だが、もう心配はしなかった。南原杉子が何を云うことが出来るか。仁科六郎の前なんだから。だが、電話がかからないのは少し癪にさわる。まあいい、いずれは終りが来ることなんだ。


 土曜日が来た。仁科たか子は、郵便受から速達の手紙をうけとった。仁科六郎が出勤した後である。

「先日は突然御邪魔して失礼しました。さて、明土曜日の夜七時、ささやかな御招きを致し度く、せいぜいおいで下さいますように。急にとりきめましたことで、御都合もいろいろおありのことと存じますが、何とぞ御出まし下さいませ。御主人様には御電話で御招待いたします」

 カレワラの地図がはいっていた。たか子は不審に思った。この手紙をかいたのは、昨日の夕方。消印が六時になっている。それなら、夫六郎のところへ、夫人同伴でと招待の電話をすればすむことなのだ。彼女は、夫に電話をして問い合せようと思った。けれど、何か、夫の背後に、そして蓬莱和子の背後に、あやしいものがありそうな気がした。留守番を、近所の妹にたのんで、いきなり、カレワラへ行ってみようと決心した。彼女は、蓬莱和子が芦屋に住む金持の夫人で、声楽家であるという、それだけのことを知っていたにすぎない。だから、カレワラなんておかしな名前の喫茶店の存在もはじめて知ったわけなのだ。疑念が湧いた。しかし、彼女が招待に応じてゆけは、すぐに何もかも諒解出来るだろうと思った。午後から、いそいそと美粧院へ出かけてセットしてもらい単衣の御召を箪司から出し、襦袢の衿をかけなおした仁科たか子は、すっかり外出気分になった。

 カレワラは、本日終了の札を出した。蓬莱和子は、黒のシフォンヴェルヴェットのワンピースを着て、昨日、夫が買って来てくれた真珠の首飾りをしていた。彼女は、女の子に手伝わせてカナッペをつくり、その他、お酒や御馳走を注文した。奥の部屋からピアノを運び出し、喫茶店らしくなく、家具のおきかえもした。真紅なばらを壺いっぱいに活けた。これはその朝、南原杉子が花屋にとどけさせたものである。蓬莱和子は、今日の集りが、非常に面白いものであると考えた。そして自分が中心になれると思った。客はかならず集るものと信じていた。用意万端ととのえた彼女は、ピアノにむかって、ぽつぽつかきならしながら歌をうたい、飾りたてた部屋の中に恍惚としはじめた。彼女は、さっきちらりとみた鏡の中の自分を思い出した。

 ――シンプソン夫人のように、高尚だわ――


 南原杉子は、金茶色のタフタの洋服を下宿の二階できつけていた。髪型は、ひきつめで、後をまるく結いあげ、平常の型を、少し粋にさせた。そして、金茶色の大きな半円のマべ(真珠の一種)の耳輪と腕輪をはめた。鏡を斜めにして、彼女は自分の姿をうつした。しまった胴。フレヤーのスカートがゆるやかに動いて、地模様のこまかい縞がひかる。その上に、白の毛糸のすかしあみのケープをはおり、ゴールドの靴とハンドバッグを片手に二階を降りた。時間は、六時半をとっくにまわっていた。今から、自動車にのってゆけば四十分の遅刻であろう。彼女は広い通りへ出た。五分位待った。空車は彼女の傍へとまった。彼女は自動単にのってから、ハンドバッグをあけ、つけ忘れていた香水を耳もとにふった。香水だけは阿難の香水。阿難のにおいを。彼女は小さなびんを両手で抱きしめた。それは、すぐ消える淡いにおいであった。仁科六郎に会う前は、必ずその香水をつけた。別れる時は消えるものであった。香水のにおいがよく悲劇をもたらせてしまうことを彼女はフランスの小説で知っていたからである。

 ――阿難、今日は阿難、じっとしていてね。その代り、南原杉子の肉体は、もうほんとにすっかり阿難のものとなっているのよ。今日、無言のうちに蓬莱建介と別離の挨拶をするわね。彼の女類の中に加えられても私は侮辱されたと思わないわ。その方が気楽よ――

 ――阿難は今日本当にかなしくってよ。でも、じっとがまんをしているわね。仁科六郎のためによ――

 ――阿難、かわいそうに――

 彼女はぽろりと涙を落した。自動車は、繁華街にちかづいた。


     十二


 カレワラに、最初にあらわれた客は、仁科たか子であった。

「まあ、いらして下さったのね、ありがとう。嬉しいわ。さあおかけになって、あら、いい御召物ね。えんじ色、よく御似合いだわ」

 仁科たか子は狼狽した。

「主人はまだでしょうか」

「あら、もうすぐいらしてよ。さあさ」

 その時、蓬莱建介と仁科六郎が、連れだってはいって来た。男同志の友情とはよいものである。道で、仁科六郎に出会った蓬莱建介は、歩きながら今日の期待のことを話したのだ。

「女房の奴、君の妻君も招待したんだぜ」

 仁科六郎は一瞬たじろいた。

「まったく、いつまでたっても子供じみた女房だよ」

 仁科六郎は蓬莱建介に心の中で感謝した。彼は、無事に終るようにねがった。

 ――阿難がかわいそうだ。僕はたか子にやさしくしなければならないのだから――

「まあ、大いにのもう。女房の御馳走は有難いもんだ」

 蓬莱建介は、仁科六郎の気持をよく推察出来た。彼は、世間ずれしている。そして、臆病者である。事件をこのまない。だから、仁科六郎に親切したわけなのだ。


 仁科六郎は、にこやかに妻たか子をみた。彼は、阿難がまだ来ていないことにほっとした。

「いたずらするんですね。蓬莱女史は、一しょに招待すればいいものを」

 仁科六郎はたか子の横にこしかけた。蓬莱和子は、夫が喋ったことをすぐ感付いていた。

「びっくりさせようと思ってたくらんだのよ。ごめんなさい」

 蓬莱建介は、ばらの花の枝にしばりつけてあるネーム・カードをみながら大きな声で云った。

「僕をふった女性はまだ来ないかね」

「お杉、来る筈よ。わざとおくれて来るんでしょう」

 蓬莱和子は、ビールの栓をぬきながらこたえた。

「お杉ってどなたですの」

 仁科たか子は夫に小声でささやいた。

「あら、御存知なかったわね。南原杉子さんって、とてもきれいないい方よ。あなた、屹度好きになれるわ」

 たか子の質問を耳にはさんだ蓬莱和子は、愉快そうにこたえた。

「放送の仕事している人だ」

 仁科六郎は、たか子に云った。

 ――夫がまるで関心のない人なんだわ、そして、蓬莱和子にだって、夫は別にとりたてて好意をもってないわ。美人だけど、もう年輩の方だし、御夫婦は仲よさそうだもの――

 たか子は、夫六郎の方に笑顔をおくった。

 四人はビールの乾杯をした。

「ねえ、あなた、こんなおまねき本当にうれしいですわ」

「じゃあ、これから度々しましょうね、今度はうちの方へ御まねきするわ」

 蓬莱和子はふたたび口をはさんだ。

「南原女史、何してるんだ。シャンパンがぬけないじゃないか」

 蓬莱建介はわざと又大声で云った。然し、彼は、南原杉子が来ない方がいいように思っていた。

 ――彼女のことだから、二組の夫婦の前にあらわれても平気だろう。僕と最初の出会いからして芝居げたっぷりなんだから。でも、四人だけでも仲々厄介な関係になっているのだから、そこへ又、もっと厄介な関係の彼女があらわれたら。あんまりかんばしくないことだ――

 彼は、南原杉子とすっかり関係をたつべきだと考えていた。然し、浮気をよす心算ではない。ワイフの知っている女との関係など、物騒だと思ったのだ。

 気づまりな空気にならないように、さかんに喋るのが蓬莱和子であったが、本当は、自分の注目をひきたいような言葉ばかりであった。

「この真珠のいわくを申しましょうか」

 彼女は、仁科たか子にささやいた。

「たか子さん、うちの女房は大へんな女房ですよ。僕に浮気したら背広買ったげると云ってね、出来なかったから真珠を買わされたのですよ。相手は、もうじきあらわれるだろうところの南原女史。浮気は出来ない。真珠は買わされる。さんざんです」

 蓬莱建介が笑いながら云った。たか子は、目の前の夫婦が不思議だと思った。仁科六郎は不愉快でならなかった。だが、快活をよそおわねばならないと思った。

「たか子。僕が浮気したらどうする?」

「いやですわ、冗談おっしゃっちゃ」

「たか子さん、御心配御無用よ。六ちゃんは絶対大丈夫。私が太鼓判を押すわ」

 たか子は素直に笑った。蓬莱和子は悠然と頬笑んだ。彼女は、誰からも信頼され、誰からも頭をさげられたいのだ。

 ――御心配御無用よ。私はばらしやしませんよ――

 彼女は、仁科六郎の方をちらりとみた。そして、すこぶる優越的な気持になっていた。表で自動車のとまる音がした。瞬間、四人の間に、不気味な空気がわきあがった。

 ――阿難、すまない。がまんしてほしい――

 ――お杉はどんな表情をするかしら、今日という今日は、私に顔があがらないだろう――

 ――とうとうやって来た、南原杉子。どうにかうまくゆくだろう。しかし僕はびくびくなんだ――

 ――どんな方かしら、きれいな方らしいけど、夫が今まで私に黙っていた人。夫のまるで関心のない人にちがいないけど――

 ドアがあいた。

「待ってたよ。おそかったね。仁科君の奥さんも来てられるんだよ」

 蓬莱建介である。彼は誰よりもはやく、殆どドアがあいた時に、入口の方へちかよって行った。蓬莱和子の視線。のりだすように、こちらをみている着物の婦人。仁科六郎はうつむいている。南原杉子は、自動車を降りた途端、まるで阿難を葬っていたのだが、胸にはげしい鼓動を感じた。蓬莱建介は、奥の方へ背中をむけ、南原杉子を、ほんのしばらくかばってやっていた。彼の愛情である。

「さあ、はやく、はじめてるんだぜ」

 南原杉子は、蓬莱建介に、まず無言のうちに諒解したというまなぎしを与えて、正しい姿勢で奥へはいった。それまで、いつもの饒舌を忘れていた蓬莱和子は、たち上ると、

「お杉。何故、おそかったの、さあさ、六ちゃんの奥様よ」

 蓬莱和子は、夫の南原杉子に対する好意的な行為を、何か意味あるものととった。そして真珠の首飾りを無意識につかんだ。

「南原でございます」

 仁科たか子は、たち上ってしずかに会釈した。南原杉子は、仁科たか子をみなかった。そして傍の仁科六郎をもみなかった。

「南原女史、さあ」

 蓬莱建介は、シャンパンをいさましくぬいて、最初にカットグラスを彼女の手に渡した。彼女はそれを手にして、あいている椅子に腰かけた。それは、四人の視線をまっすぐにうける中央のソファであった。南原杉子の手は、かすかにふるえていた。蓬莱建介は、なみなみとシャンパンをつぎながら、注ぎ終えても、しばらくそのままの恰好で、南原杉子がおちつくのを待ってやった。

「おい、レコードをかけろよ」

 蓬莱和子は、南原杉子の衣裳をほめながら蓄音器に近づいた。

「ジャズがいいわね」

「『いつかどこかで』をかけろよ」

「あら、思い出があるの?」

 その時、南原杉子は、はっきりと南原杉子になっていた。

「あるのよ、御主人との思い出よ。私が、ホールでうたっていた時、御会いしたのよ」

 仁科六郎は驚いた表情で南原杉子をみた。

「私ね。パートナーと踊りに行って酔っぱらったから、舞台にあがっちゃったの」

「いつかどこかで」がなり出した。

「女史、踊ってくれませんか」.

「いやよ、奥様と踊るわ」

 南原杉子は、蓬莱建介の方へにっと笑ってみせた。

「お杉、踊ってくださるの、うれしいわ」

 南原杉子は、蓬莱和子をかかえた。そして、もう、彼女の肉体に何も感じなかった.

「たか子さん、おかしいね、あの二人、あなたも踊られませんか」

「私、ちっとも知らないのです」

 踊っている蓬莱和子はふと身体をかたくした。南原杉子と自分。彼女は、自信がくずれてゆくのを知った。

「御疲れ、よしましょう」

 南原杉子は、蓬莱和子をいたわるように椅子にすわらせた。

 五人は、御酒をのんだり、御馳走をたべたりするうちに、わだかまりをとかしはじめた。しかし、この際、わだかまりがとけるということは、非常に危険なのである。南原杉子は、さかんにのんだ。けれど、はっきり南原杉子を意識していた。仁科たか子は味わったことのない空気に酔いだした。そして、仁科六郎を世界一よい夫君だと信じた。蓬莱建介は、無事に終りそうなのでほっとしていた。彼は、南原杉子に、関係をつづけてくれと頼もうかと思った。それ程、彼女は美しかったのだ。蓬莱和子は、いらいらしはじめた。そして、しきりに、真珠の首飾りをいじった。

 ――本当に、浮気をしたなら、浮気をしましたなど云えないわ。夫と、お杉は何かあったのじゃないかしら。でも、彼女は、仁科六郎を愛している筈。いや、愛しているとみせかけて、夫と何かあるのをかくしているのかしら――

 蓬莱和子は、仁科六郎と、夫建介とを見比べた。蓬莱建介の方が立派である。彼女は、喜びと不安と、どっちつかずの気持であった。

「六ちゃん。いやに黙っているのね。奥様とおのろけになってもいいことよ」

 仁科たか子は、はずかしそうに、しかし嬉しそうにうつむいた。彼女は、善良な女性である。

「お前ときたら、のろけるのは人前だと考えているのかね」

 蓬莱建介は笑いながら云う。

「ねえ、あなた。でもお若い御夫婦をみてると羨しくなるわね」

「あらいやだ。ママさんは、御若いのだと、御自分で思ってらっしゃる筈よ」

 それは、鋭い南原杉子の言である。

「どうして、あなたよりずっと年寄りよ」

「年齢で若さは決められないわよ」

「じゃあ何」

「だって、人間の精神があるものね。五十でも六十でも若い人居てよ。精神的な若さに、肉体が伴わない場合、しばしば女の悲劇が起るのよ。ママさんはとにかく御若い筈よ」

 仁科たか子は、肉体という言葉を平気で口にする女性にびっくりした。

「若くみられて幸せじゃないか」

 蓬莱建介が言葉をはさむ。

「本当はおばあさんなのにね」

 蓬莱和子は、ひどく夫建介と、南原杉子から軽蔑をうけたような気がした。

 仁科六郎は飲んでばかりいた。喋ることがとても出来ないのであった。阿難がまぶしい存在に思われた。何か、遠いところにある女性のように思われた。そして傍にやさしくうつむき加減でいる妻たか子の方が、安心して接近出来る人に感じた。

「南原さんは御結婚なさいませんの」

 仁科たか子は、こんなことを云ってわるいのかしらと思ったが、酔い心地で、南原杉子に恍惚としながら、おずおず云ってしまった。

「お杉は、結婚なんか馬鹿らしくって出来ないと思ってるのよ」

 蓬莱和子は、まともに南原杉子を凝視しながら云った。

「いいえ、そうじゃありませんの、たか子さん、わけがあるのよ」

 仁科六郎は頬を硬ばらせた。

「南原女史だって、結婚したいと思っているさ、だが彼女はまだ気にいった人がないと云うわけさ」

 蓬莱建介は、ねえ、そうだね、という表情で南原杉子をみた。蓬莱和子は、又真珠の玉をにぎった。

「あなたは、いちいち私の云うことに反対なさるようね」

 蓬莱和子は、少し冷淡に、夫建介をみた。

「あら、私、あなたの解釈とも、御主人の解釈ともちがったことで結婚しないのですわ、老嬢秘話をあかしましょうか」

 仁科六郎はうつむいた。

「私、勿論、結婚してらっしゃる方をみて、羨しい限りなんですよ。でも、結婚しませんと誓ったことがあるんです。昔のことですけど、純情少女の頃、純情な少女がある男の死に捧げた誓いなんですよ」

 ――その少女は阿難なのだ。その男は、仁科六郎なのだ。そして、それは過去ではない。現在なのだ――

「おどろいたわね、お杉は子供なのね」

「そうよ、みえない世界で結婚していて、ひめやかに貞操を守りつづけているわけよ」

 蓬莱建介は、南原杉子のつくりごとであると見抜いた。仁科六郎は、みえない世界を、自分達のものだと信じた。ふと、南原杉子と視線があった時に、疲女はうなずいたのだ。

「まあ、お気の毒ね、ごめんなさい、私、いやな思いをおさせしたみたいだわ」

 仁科たか子は心から云った。

「いいえ、私、幸せよ」

 南原杉子は笑った。然し、阿難が泣きはじめた。

「お杉は案外ね」

 蓬莱和子は、わけがわからなかった。然しそれを口にだして疑問の言葉にすることは出来なかった。仁科たか子が居る。

「さあ、とにかく、もっとのまなけりゃ」

 蓬莱建介が云った。南原杉子は、元気よくグラスをつき出した。

 ――南原杉子。私と、蓬莱建介と蓬莱和子の三角の線。私と仁科六郎と蓬莱和子の三角の線。私と、仁科六郎と蓬莱建介の三角の線。私は、重なりあった三つの三角の線を断ち切って。仁科六郎と阿難の線だけを存続させようとしたのだわ。だけど、あらたに、三角の線が出来てしまった。仁科たか子があらわれたのだから――

 ――阿難は絶望――

 ――いいえ、仁科六郎の愛を信じなさい――

 仁科夫妻はむつまじかった。それだけで、仁科六郎と阿難の世界はぐらつきはしないのだが、阿難の脳裡に、色の白い細おもての仁科たか子が明確に残るものに違いないのだと、南原杉子は考えた。

「お杉って人は、仲々自分のことを云わないのね。ねえあなた。今日は、お杉の告白の一部分をきいたわけだけど、もっと何かありそうよ。お杉の性格は疑いぶかいのね。私なんか信用されてないみたいね」

 蓬莱和子は、夫建介と南原杉子を交互にみる。

「じゃあ、何でもべらべら喋ったら、それが信用している証拠になりますの」

 南原杉子は、にこやかに云う。

「まあまあ何でもいいさ」と蓬莱建介。

「いいことないわよ。私は、お杉がすきだから、お杉のために一肌ぬごうっていう気なんですもの」

「僕のために一肌ぬいでくれたらどうだい」

 蓬莱建介は、冗談まじりに蓬莱和子の肩をたたく。

「南原さん、御かわいそうよ。昔のこと思い出されて」

 その時、南原杉子に同情の言葉をよせたのは、仁科たか子である。南原杉子は黙ってうなずかねばならなかった。

 ――何ということだろう。仁科たか子に同情されたのだ。阿難がここで、仁科六郎を愛してますと云って、仁科たか子から嘲笑か、にくしみなうけた方が同情されるよりましだわ――

 ――もう駄目、何もかも駄目。阿難は何も云えないわ――

 蓬莱和子は、真珠をいじりながら、自分が想像していたような集りのふんいきにならなかったことに気付いて腹立たしかった。彼女は、夫建介と親密な関係を、南原杉子にみせるつもりだったのだ。ところが、蓬莱建介は、何かというと南原杉子をかばい、その上、仁科たか子までが。

「ねえ、六ちゃん。あなたはお杉がいつも仮面をかぶっているらしいことをどうも思わない?」

 遂に、彼女は最期の一人に同意を得ようとした。

「僕、わかりませんよ。そんなこと。それより、うたでもうたってくださいよ」

 仁科六郎は、蓬莱和子の得意とする歌をうたわすことが、この場合、最も座が白けないで済むと思ったのだ。案の定、彼女ははれやかにピアノの傍へちかづいた。仁科六郎は、無言でピアノをひけと阿難に命じた。

「私、伴奏しますわ」

「あら、お杉、ピアノひけるの」

「南原女史は何でも屋なんだね」

 蓬莱和子は、楽譜をめくりながら、一番むずかしそうな伴奏のを選んだ。

「初見でおひきになれる?」

「ええ。エルケニッヒね」

 南原杉子は苦笑した。そして、ピアノのキイに手をのせたかと思うと、はやい三連音符をならしはじめた。

 仁科六郎はほっとした。黙って居られることが、そして、南原杉子が自分に背をむけていることが救いであった。

 ――阿難、僕達は何てかなしい対面をしたのだろう――

 彼は、蓬莱和子の歌声などきいていなかった。そして、両手をくんでじっとその手をみていた。

 蓬莱建介もきいていない。彼は、妻和子の不穏を感じて、この集りが終る時までに、何とかして彼女の機嫌をとらなくてはと思っていた。

 蓬莱和子は、時折楽譜をみながらピアノの傍で自分の声に酔っていた。

 ――私は、何といったって今宵の中心人物なんだわ。お杉だってそれに気付いて、内心私に嫉妬しているのだわ。あら、夫が私をみて頬笑んだわ。やっぱり私の美貌が得意なんだろう――

 南原杉子は、ミスがないようにと忠実にひいた。

 曲が終った時、相手をしたのは仁科たか子であった。彼女は、拍手をしなければならないものと、曲がはじまった時から待機の姿勢でいたのだ。

「音が狂ってますわ」

 南原杉子は、三つ四つ、キイをたたいた。

「お杉ったら、どうしてピアノひけるって云わなかったの」

 南原杉子は苦笑した。

「お杉、何かひきなさいよ」

「え、ひきますわ」

 南原杉子は、そっけなく答えた。そして、しばらく静かにピアノをみつめていた。四人の男女は耳をそばだてた。

 ――阿難、かわいそうな阿難。あなたの愛している人は幸せな家庭をもっている人なのよ。たか子さんって人は大人しいいい方なのよ。阿難。あなた嫉妬してはいけないわよ。阿難、泣かないで。あなたの愛している人が苦しんではいけないからね――

 彼女はひきはじめた。彼女の作曲である。テーマは出来ていた。彼女は、ひきながらヴァリエーションをつけてゆく。もう彼女の背後には、仁科六郎一人しか存在していない。弾いているのは阿難。

 ――お杉がピアノを弾く。お杉がうたをうたう。夫の前でうたったのだ。お杉と自分。若さ。才能。いや、私の方が。私は蓬莱建介の妻。妻の資格。お杉にはそれがないのだ。お杉はどんなにすぐれていても老嬢なんだわ――

 蓬莱和子は、老嬢南原杉子を軽蔑した。軽蔑出来たのは、蓬莱建介の存在のおかげであるのだが。

 蓬莱建介は、南原杉子の、立体的な側面の姿を眺めていた。だが、傍に、妻和子が居ることを心得ていた。だから、時折、妻和子の方をみることを忘れなかった。蓬莱和子の真珠の光沢は、彼に、南原杉子とのこれから先の関係を肯定しているようであった。

 仁科たか子は、こんなにはやくいろいろの音の連続を出せるのかと、不思議に思った。

 ――ああ、阿難。ピアノをやめて、僕は狂いそうだ。阿難の感覚。阿難の作曲。阿難の音。だが、やっぱりつづけてくれ、いつまでも、僕は狂いそうだ――

 仁科六郎は目を閉じていた。

 高音部のトレモロ、マイナーのアルペジオ。

 ――阿難。阿難――

 阿難は、頬をつたって流れる涙を感じた。最期の三つのハーモニー。

「阿難」

 突然。それは、仁科六郎の声であった。本当の声であった。阿難は、ピアノにうつる彼の姿をみた。彼女は、キイに手をおいたまま、ペダルもきらずにうなだれた。

 仁科たか子も、蓬莱夫妻も、仁科六郎のさけびをきき、彼の表情を目撃した。誰も何一言云わない。つったっている仁科六郎を、唖然として見上げている。彼の、短いさけびを理解することがどうして出来よう。

 ふいに、金茶色の布がきらめいた。阿難は、まっすぐドアの方をみたまま、部屋を小走りによこぎった。涙がひかっていた。


「魔性なんだよ。彼女には魔性があるんだよ。たか子さん、あなたの御主人は、魔につかれたんですよ。さあ。飲みなおしだ」

 蓬莱建介は、やっとそれだけのことを云うことが出来たのだ。彼にとって、蓬莱氏と、蓬莱夫人が無事に終ったことが一まず安心にちがいなかった。

「あなた、どうなさったの」

 たか子は、共に不安なまなざしをおくった。仁科六郎は、悄然と椅子にこしをおろした。その時、蓬莱和子は、傍のグラスを一息にのむと、ヒステリックな笑い声をたてた。


     十三


 ――阿難は生きてゆけません。一生、こんな大きな幸福の、華々しい瞬間は、もうございませんもの。阿難、とあなたの声。阿難の幸福の瞬間、華々しい瞬間が――


〈昭和二十七年〉

2022年11月23日 (水)

中野弘隆さんが死去 画家、絵本作家

「ぞうくんのさんぽ」シリーズで知られる画家で絵本作家の中野弘隆(なかの・ひろたか)さんが22日未明、老衰のため東京都の自宅で死去した。79歳。青森県出身。喪主は長男正太郎(しょうたろう)さん。


 桑沢デザイン研究所を卒業後、デザイン会社などを経て、絵本の創作に取り組む。「ぞうくんのさんぽ」シリーズは、累計部数200万部を超えた。他の代表作に「なきむしおばけ」「およぐ」など。

(共同通信)20221122 


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ぞうくん、かばくん、わにくん、かめくんが、ごきげんにさんぽをする『ぞうくんのさんぽ』は1968年、月刊絵本「こどものとも」から刊行されました。 シンプルながら最後に、「あ~っ!」と驚く展開を迎えるお話が子どもたちをひきつけ、親子3代で読み継がれているシリーズです。

2022年11月20日 (日)

石ノ森章太郎『佐武と市捕物控』ちくま文庫

編者の中野晴行が選んだエピソードを3巻連続刊行。

舞台になっているのは江戸後期。本書に収録した「菊人形」の記述から類推して文化文政期(一八〇四〜一八三〇年)あたりと考えられる。文化文政期は「化政文化」と呼ばれる江戸の町人文化が咲き誇った時代でもある。(中略)『佐武と市捕物控』にはそうした江戸の人々の暮らしぶりが丹念に描かれている。この本では、春から年の瀬、正月へと江戸の暮らしを絵巻物として並べてみた(編者解説より)
第一巻

「生首雛人形」「菖蒲」「蛇の目」「狂い犬」「菊人形」「年の関」「めでたさも中位なり江戸の春」

石ノ森は『佐武と市捕物帖』で、様々な表現技術への挑戦をした。


人を斬る虚しさを描いた作品をシリーズより選んだ傑作集。佐武の相棒・市が、盲目の身を守るため学んだ居合斬り。だが強い者は狙われる皮肉な運命に。次々と現れる剣豪や腕自慢の無頼者。蝦夷地ではエゾオオカミとの戦いが

第二巻

「熱い風」「忍び」「群狼」「斬る」「海鳴り」「冥土の土産になにもろた」「凍った血」「シャマイクル」の全8編。


男女の情と欲が妄執となって殺意となるとき、江戸の町に事件が起きる。お馴染み佐武と市の名コンビだが、今回は自分たちの心の闇にも気づかされることに―。マンガ史にその名を刻む最高傑作シリーズからテーマ別に選んだ文庫オリジナル・アンソロジー全3巻完結。

第三巻

「闇の片脚」「血と雪」「芒」「巾着きり」「燈籠流し」「神隠し」「端午の節句」

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当初連載は少年サンデーだったのが、途中からビッグコミックに変わった。少年漫画では描ききれない、男女の機微や異常な性癖を描けるようになり、『佐武と市捕物帖』も円熟味を増し、奥の深いものになっていった。

2022年11月19日 (土)

向田邦子と野呂邦暢との秘話 

長崎県諫早市を拠点に野呂邦暢(のろ くにのぶ)は活動した純文学系の作家で、芥川賞を受賞している。推理小説は趣味として書いたという、人間を描写していない作品は薄っぺらいと持論を掲げている。


『野呂邦暢ミステリ集成』【収録作品】

「失踪者」

「剃刀」

「もうひとつの絵」

「敵」

「まさゆめ」

「ある殺人」

「まぼろしの御嶽」

「運転日報」


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持論どうり描写が基本的に丁寧になされて、特に心理描写は細やかに表現されている。

「ミステリであっても人間をしっかり描くことを第一にしている」という。推理小説の愛好家だけではなく、幅広いバライティーに富んだ読み応えある短編集となっている。

色んなスタイルで中編から短編、ショートショート風にまとめられております。


収録作品の他にもミステリー関連したエッセイが幾つか巻末に掲載されている。

〈ヨーカンでも時計でもいい。初めに具体的な「物」がある。それによって記憶の井戸さらえのごときことが起り、主人公の内部に深く埋れていたものが明るみに出て来る。〉


〈世界の本質は謎である。私たちはそれを解くことはできないが世界を形造ることはできる。だとすれば謎を解く必要などありはしない。〉


 本当らしさを作品に盛り込もうとして文学のリアリティーを失うことよりは、「とことん嘘をつくことで生じるリアリティーの方を尊重したい」と小説感を述べている。


向田邦子が惚れ込んでドラマにしたかった「諫早菖蒲日記」という長編作品がある。

諫早藩にある砲術指南役の家の娘から通して描かれる。

佐賀藩の圧政に忍従する諫早藩。開港を求めて続々と来航する外国船。そこで動揺する武士の姿。当時の諫早を切々とスケッチした時代小説。


〈伯父上は罌粟畑にかがんで花びらの下にふくらんでいる子房に小刀を当てられた。縦にあさく傷をつけると、まもなくねばり気のある汁液がにじみ出てくる。それがかたまりかけると竹べらでかきとり、竹の皮にすりつけた。叔母上がそれをひなたにならべ、風でとばないように石を重しにのせられる。私は伯母上のすすめで浴衣に着替え、たすきをかけた。罌粟の汁は布にこびりつくと洗っても落ちないそうである。伯父上のすることを真似て、花びらの子房を小刀で傷つけ、にじみ出る汁液をかたまらないうちにそぎとった。傷は三条だけつけるように、と伯父上は念をおされた。ひなたで乾かした汁液は濃い茶褐色に変じている。これは腹痛にきくそうである。伯父上はいわれた。「矢傷、槍傷、刀傷、なんにでもきく」「弾丸傷にはきかないのでありますか」「おお、弾丸傷に効かないことがあろうか、いかなる苦痛もやわらげる、量と含み方によっては魂天外に飛ぶ思いもする」白い花があり、紫と深紅の花があった。ご家老方に世事の憂さを忘れさせるために栽培された罌粟であろうか、と私は問うた。万が一、長崎表で外国船を迎えていくさになった場合にそなえて栽培しており、と雄斎伯父はいわれた。〉(P63



あとがき

〈私がいま住んでいる家は、本書の主人公藤原作平太の娘志津がくらしていた家である。〉

〈この家の家主さんA夫人と私は同じ棟に住んでいる。ふとしたことで土蔵に御先祖の古文書がしまわれていることを知り、秘蔵の砲術書や免許皆伝の巻物などを見せていただいた。オランダ語から翻訳された砲術教程もあった。数十冊の古文書のうちには専門家の鑑定によれば、わが国に二、三冊しかない貴重な史料もまざっているとのことである。百二十年前、諫早藩鉄砲組方の侍たちが砲術を学び、その術を口外しないこと、また奉公に懈怠なきことを誓って署名血判した誓紙もあった。血の痕は色褪せ、薄い茶色になっていた。藩士たちの名前は諫早で親しい姓名である。私の親戚知人の先祖と思われる姓も見られた。三年前のことであった。奉書紙にしるされた薄い血の痕に鮮やかさを甦らせることが私の念願であったのだが、それが本書によってかなえられたかどうか。〉(p258-259


諫早の地理に詳しく地図や画像検索して読むと一層楽しめると思います。


「諫早菖蒲日記」映像散歩、長崎テレビ紹介

https://youtu.be/qPgGd2uqSRM


【関連記事】

野呂邦暢と向田邦子 『それぞれの芥川賞 直木賞』より【本のことあれこれ】

 http://ameblo.jp/tukinohalumi/entry-11279563121.html 


向田邦子と野呂邦暢との秘話 :獅子ヶ谷書林・日月抄.

http://tsunoyoi18.seesaa.net/article/162175243.html 


 「なにかこう、心にしみるような小説ないかしら」と向田の問いかけに応えて、文藝春秋社の「文學界」編集長の豊田健次が野呂邦暢の「諫早菖蒲日記」を薦めて、これに心酔した向田が死の直前の野呂に「落城記」のドラマ原作権の許諾を求めて面識を得るエピソードがある。

その直後に野呂は42歳で急死して、その後の向田は野呂との約束を果たすべくドラマ製作に奔走するが、『わが愛の城-落城記より-』の完成後にとりかかるはずだった「諫早菖蒲日記」の脚本を手がけることなく向田は台湾で事故死してしまった。

2022年11月 6日 (日)

『アックス』vol.148「解放と発見の場!美学校が示す表現の楽しみ」

 美学校OB&講師の南伸坊さん、久住昌之さん、根本敬さん、堀道広さんの四名による座談会や歴代卒業生のコメント、そして卒業生のロビン・ヴァイヒャートさん、まどの一哉さん、松田光一さん、堀道広さんの漫画が掲載されています。


表紙/根本敬・写真/井上則人

 

◎特集:「解放と発見の場 美学校が示す表現の楽しみ」

 

OB座談会/南伸坊、久住昌之、根本敬、堀道広

 

・コメント/アヤ井アキコ、和泉晴紀、井上則人、皆藤将、河内遙、久住卓也、末井昭、平口広美、松田光市、まどの一哉、夜野ムクロジ

 

・マンガ/ロビン・ヴァイヒャート

 

「市場の片隅で」 まどの一哉

「アンダープラネット」 仲能健児

「スローシナリオ」モリノダイチ

「孤島第6話 絶望」 工藤正樹

「セミナー」 松田光市

「青光ユロージヴィ」 清水沙

「空間における連続性の唯一の形態」 駕籠真太郎

「お弁当」 鈴木ミロ

Re: 飯田舞

「求道くん」31 ツギノツギオ

「つまみ食い」 ESDRO

10万円がやってきた日」 具伊井戸夫

Finnegans Fake(フィネガンズ フェイク)」43 山崎春美

「活動と命」 安部慎一

隔月蛭子劇画プロダクション社内報79「家庭内北朝鮮偉大なるオナラ同志に万歳!」  蛭子能収(社長)、根本敬、マスク・ベビー

「さびたとびら」 三本義治

「メシアの海」60  菅野修

「めだかのこ」7  若草ヒヨス

「月刊どうすれば」堀道広

「いずみ荘20758 吉泉知彦

「哀愁劇場」142  東陽片岡

「現代人の情事情~止まらない性欲」  岡田衛

「ぶどう園物語」10  ツージーQ

Kappa focus130 Mista Gonzo & Gangrock For Kappa Sh_t Production

「ル・デルニエ・クリの人びと」55 アート倉持

「ふんどしのはらわた」142 杉作J太郎

「いずみ荘20759 吉泉知彦

「新・日本の殺人者」148 蜂巣敦

「マンガ三面鏡」62  呉智英

「あさりとはまぐり」57  湯浅学

「どどいつ文庫の、やっぱりどどでもよかつた。。」52  どどいつ文庫

「塗れない ぬりえを 塗るんだぜ」50  あきやまみみこ

 

http://www.seirinkogeisha.com

『アックス』vol.147 ◎追悼・宮谷一彦「激情の魂」

怒りを狂気に変え真っ直ぐに作品に落とし込むその迫力は追随を許さず、多くの漫画家に影響を与えた〈宮谷一彦〉の存在を忘れてはならない!


追悼・宮谷一彦/全力でぶつかる宮谷氏を全力で受け止めた宮谷氏の理解者達が秘蔵テープやエピソードで語るマンガ家宮谷一彦の全て!


表紙/宮谷一彦

・追悼コメント/赤田祐一、浅川満寛、飯田耕一郎、竹熊健太郎、ダーティ・松本、戸田利吉郎、並木智子、根本敬、早見純、松本品子、村上知彦、森田敏也、湯浅学、吉田保 ・マンガ/「あにおとうと」


「望みがあるならパワーだぜ!」三本義治

隔月蛭子劇画プロダクション社内報80「呼ばれたら?あぁ、俺は大丈夫」 蛭子能収(社長)、根本敬、マスク・ベビー

BLUE BELL KNOLL 清水沙

「ぶどう園物語」11 ツージーQ

「ソファ幽霊」 高橋つね

「スローシナリオ」3 モリノダイチ

「月刊どうすれば」5 堀道広

「クラチの最後のノート」 具伊井戸夫

「アサガオと大透翅」 佐藤義昭

Finnegans Fake(フィネガンズ フェイク)」44  山崎春美

「孤島第7話 回想」 工藤正樹

「うみのきさき」  よるのなおこ

「哀愁劇場」143  東陽片岡

「メシアの海」61  菅野修

「恐怖のコマ枠の襲撃」  駕籠真太郎

「山のアナタ」  松田光市

「黒山羊の陰謀」  まどの一哉

「求道くん」32  ツギノツギオ

Creep 8 」  神村篤

Kappa focus131  Mista Gonzo & Gangrock For Kappa Sh_t Productions

「新・日本の殺人者」149  蜂巣敦

「マンガ三面鏡」63  藤本由香里

「いずみ荘20760  吉泉知彦

「ふんどしのはらわた」143  杉作J太郎

「ル・デルニエ・クリの人びと」56 アート倉持

「どどいつ文庫の、やっぱりどどでもよかつた。。」53  どどいつ文庫

「塗れない ぬりえを 塗るんだぜ」51 あきやまみみこ


青林書房

20221031日発行

定価(本体1000+税)

2022年11月 5日 (土)

『野呂邦暢ミステリ集成』と『諫早菖蒲日記』

長崎県諫早市を拠点に野呂邦暢(のろ くにのぶ)は活動した純文学系の作家で、芥川賞を受賞している。推理小説は趣味として書いたという、人間を描写していない作品は薄っぺらいと持論を掲げている。


【収録作品】

「失踪者」

「剃刀」

「もうひとつの絵」

「敵」

「まさゆめ」

「ある殺人」

「まぼろしの御嶽」

「運転日報」


持論どうり描写が基本的に丁寧になされて、特に心理描写は細やかに表現されている。

「ミステリであっても人間をしっかり描くことを第一にしている」という。推理小説の愛好家だけではなく、幅広いバライティーに富んだ読み応えある短編集となっている。

色んなスタイルで中編から短編、ショートショート風にまとめられております。


収録作品の他にもミステリー関連したエッセイが幾つか巻末に掲載されている。

〈ヨーカンでも時計でもいい。初めに具体的な「物」がある。それによって記憶の井戸さらえのごときことが起り、主人公の内部に深く埋れていたものが明るみに出て来る。〉


〈世界の本質は謎である。私たちはそれを解くことはできないが世界を形造ることはできる。だとすれば謎を解く必要などありはしない。〉


 本当らしさを作品に盛り込もうとして文学のリアリティーを失うことよりは、「とことん嘘をつくことで生じるリアリティーの方を尊重したい」と小説感を述べている。

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向田邦子が惚れ込んでドラマにしたかった「諫早菖蒲日記」という長編作品がある。

諫早藩にある砲術指南役の家の娘から通して描かれる。

佐賀藩の圧政に忍従する諫早藩。開港を求めて続々と来航する外国船。そこで動揺する武士の姿。当時の諫早を切々とスケッチした時代小説。


〈伯父上は罌粟畑にかがんで花びらの下にふくらんでいる子房に小刀を当てられた。縦にあさく傷をつけると、まもなくねばり気のある汁液がにじみ出てくる。それがかたまりかけると竹べらでかきとり、竹の皮にすりつけた。叔母上がそれをひなたにならべ、風でとばないように石を重しにのせられる。私は伯母上のすすめで浴衣に着替え、たすきをかけた。罌粟の汁は布にこびりつくと洗っても落ちないそうである。伯父上のすることを真似て、花びらの子房を小刀で傷つけ、にじみ出る汁液をかたまらないうちにそぎとった。傷は三条だけつけるように、と伯父上は念をおされた。ひなたで乾かした汁液は濃い茶褐色に変じている。これは腹痛にきくそうである。伯父上はいわれた。「矢傷、槍傷、刀傷、なんにでもきく」「弾丸傷にはきかないのでありますか」「おお、弾丸傷に効かないことがあろうか、いかなる苦痛もやわらげる、量と含み方によっては魂天外に飛ぶ思いもする」白い花があり、紫と深紅の花があった。ご家老方に世事の憂さを忘れさせるために栽培された罌粟であろうか、と私は問うた。万が一、長崎表で外国船を迎えていくさになった場合にそなえて栽培しており、と雄斎伯父はいわれた。〉(P63



あとがき

〈私がいま住んでいる家は、本書の主人公藤原作平太の娘志津がくらしていた家である。〉

〈この家の家主さんA夫人と私は同じ棟に住んでいる。ふとしたことで土蔵に御先祖の古文書がしまわれていることを知り、秘蔵の砲術書や免許皆伝の巻物などを見せていただいた。オランダ語から翻訳された砲術教程もあった。数十冊の古文書のうちには専門家の鑑定によれば、わが国に二、三冊しかない貴重な史料もまざっているとのことである。百二十年前、諫早藩鉄砲組方の侍たちが砲術を学び、その術を口外しないこと、また奉公に懈怠なきことを誓って署名血判した誓紙もあった。血の痕は色褪せ、薄い茶色になっていた。藩士たちの名前は諫早で親しい姓名である。私の親戚知人の先祖と思われる姓も見られた。三年前のことであった。奉書紙にしるされた薄い血の痕に鮮やかさを甦らせることが私の念願であったのだが、それが本書によってかなえられたかどうか。〉(p258-259


諫早の地理に詳しく地図や画像検索して読むと一層楽しめると思います。


「諫早菖蒲日記」映像散歩、長崎テレビ紹介

https://youtu.be/qPgGd2uqSRM


【関連記事】

野呂邦暢と向田邦子 『それぞれの芥川賞 直木賞』より【本のことあれこれ】

 http://ameblo.jp/tukinohalumi/entry-11279563121.html 


向田邦子と野呂邦暢との秘話 :獅子ヶ谷書林・日月抄.

http://tsunoyoi18.seesaa.net/article/162175243.html 


 「なにかこう、心にしみるような小説ないかしら」と向田の問いかけに応えて、文藝春秋社の「文學界」編集長の豊田健次が野呂邦暢の「諫早菖蒲日記」を薦めて、これに心酔した向田が死の直前の野呂に「落城記」のドラマ原作権の許諾を求めて面識を得るエピソードがある。

その直後に野呂は42歳で急死して、その後の向田は野呂との約束を果たすべくドラマ製作に奔走するが、『わが愛の城-落城記より-』の完成後にとりかかるはずだった「諫早菖蒲日記」の脚本を手がけることなく向田は台湾で事故死してしまった。

2022年10月26日 (水)

「アンゴウ」坂口安吾

アンゴウ


坂口安吾




 矢島は社用で神田へでるたび、いつもするように、古本屋をのぞいて歩いた。すると、太田亮氏著「日本古代に於ける社会組織の研究」が目についたので、とりあげた。

 一度は彼も所蔵したことのある本であるが、出征中戦火でキレイに蔵書を焼き払ってしまった。失われた書物に再会するのはなつかしいから手にとらずにいられなくなるけれども、今さら一冊二冊買い戻してみてもと、買う気持にもならない。そのくせ別れづらくもあり、ほろにがいものだ。

 頁をくると、扉に「神尾蔵書」と印がある。見覚えのある印である。戦死した旧友の蔵本に相違ない。彼の留守宅も戦火にやかれ、その未亡人は仙台の実家にもどっている筈であった。

 矢島はなつかしさに、その本を買った。社へもどって、ひらいてみると、頁の間から一枚の見覚えのある用箋が現れた。魚紋書館の用箋だ。矢島も神尾も出征まではそこの編輯部につとめていたのだ。紙面には次のように数字だけ記されていた。


34 14 14

37 1 7

36 4 10

54 11 2

370 1 2

366 2 4

370 1 1

369 3 1

367 9 6

365 10 3

365 10 7

365 11 4

365 10 9

368 6 2

370 10 7

367 6 1

370 4 1


 心覚えに頁を控えたものかと思ったが、同じ数字がそろっているから、そうでもないらしい。まさか暗号ではあるまいが、ヒマな時だから、ふとためす気持になって、三十四頁十四行十四宇目、四字まですゝむと、彼はにわかに緊張した。語をなしているからだ。

「いつもの処にいます七月五日午後三時」

 全部でこういう文句になる。あきらかに暗号だ。

 神尾は達筆な男であったが、この数字はあまり見事な手蹟じゃなく、どうやら女手らしい様子である。然し、この本が疎開に当って他に売られたにしても、魚紋書館の用箋だから、この暗号が神尾に関係していることは先ず疑いがないようだ。

 用箋は四つに折られている。すると彼の恋人からの手紙らしい。

 矢島は神尾と最も親しい友達だった。それというのも二人の趣味が同じで、歴史、特に神代の民族学的研究に興味をそゝいでいた。文献を貸し合ったり、研究を報告し合ったり、お揃いで研究旅行にでかけることも屡々しばしばだった。それはどの親しさだから、お互に生活の内幕も知りあい、友人もほゞ共通していたが、さて、ふりかえると、趣味上の友人は二人だけで、魚紋書館の社員の中に同好の士は見当らない。のみならず、この本は殆ど市場に見かけることのできなかったもので、矢島は古くから蔵していたが、たしか神尾が手に入れたのは、矢島が出征する直前ぐらいであったような記憶がある。

 それに矢島が出征するまで、神尾に恋人があったという話をきかない。そのことがあれば、細君には隠しても、矢島にだけは告白している筈であった。

 矢島の出征は昭和十九年三月二日、神尾は翌二十年二月に出征して、北支へ渡って戦死している。してみると、この七月五日は、矢島が出征したあとの十九年のその日であるに相違ない。

 矢島は社の用箋を持ち帰って使っていた。他の社員もみなそうで、当時は紙が店頭にないのであるから、銘々が自宅へ持ちこむ量も長期のストックを見こんでおり、矢島の出征後の留守宅にも少からぬこの用箋が残されていた筈であった。

 矢島は妻のタカ子のことを考える。神尾の知人にこの本を蔵しているのは矢島の留守宅だけであり、そして、そこにはこの用箋もあったのだ。

 神尾は軽薄な人ではなかった。漁色漢でもなかった。然し、浮気心のない人間は存在せず、その可能性をもたない人は有り得ない。

 矢島が復員してみると、タカ子は失明して実家にいた。自宅に直撃をうけ、その場に失明して倒れたタカ子はタンカに運ばれて助かったが、そのドサクサに二人の子供と放れたまゝ、どこで死んだか、二人の子供の消息はそのまゝ絶えてしまっていた。

 病院へ収容されたタカ子が実家とレンラクがついて、父が上京した時は罹災の日から二週間あまりすぎており、父に焼跡を見てもらったが、何一つ手がゝりはなかったそうだ。

 タカ子の顔の焼痕は注意して眺めなければ認めることができないほど昔のまゝに治っていたが、両眼の失明は取り返すことができなかった。

 神尾は戦死した。タカ子は失明した。天罰の致すところだと考えている自分に気づいて、矢島はあさましいと思ったが、苦痛の念はやりきれないものがあった。

 タカ子の書いた暗号だという確証はないのだから、まして一人は失明し、一人は死んだ今となって、過去をほじくることもない。戦争が一つの悪夢なんだから、と気持をととのえるように努力して、買った本は家へ持って帰ったが、片隅へ押しこんで、タカ子に一切知らせないつもりであった。けれども、そういう心労が却って重荷になってきて、なまじいに自分の胸ひとつにたたんでおくために、秘密になやむ苦しさが積み重なってくるように思われた。

 そのうちに、矢島はふと気がついた。出征するまで、タカ子はいつも矢島の左側に寄りそってきた。新婚のころの甘い追憶がタカ子に残り、ひとつの習性をなしているのだ。

 夜ふけて矢島が机に向い読書にふけっている。タカ子が寄りそう。矢島は読書の手をやすめて、タカ子にくちづけをしてやる。そして、くすぐったり、キャア/\笑いさざめいて、たあいもない新婚の日夜を明け暮れしたが、当時から、タカ子は必ず矢島の左側に寄り添うのであった。寝室でも、タカ子はいつも良人の左側に自分の枕を用意した。

 新婚は、新しい世界をひらいてくれる。矢島はタカ子がひらいてくれた女の世界を賞玩した。時には、好奇し、探究慾を起しもした。そういう新しい好奇の世界で、タカ子がいつも左側へ寄りそい、左側へねる、ハンで捺したように狂いのないその習性について思いめぐらしてみたものだ。本能である筈はない。古来からのシキタリがあり、タカ子はそれを教えられており、自分だけが知らないのかとも考えたが、二十年ちかくも史書に親しんでそれらしい故実を読んだこともないから、たぶんそうでもないのだろう。

 してみると、男の右手が愛撫の手というわけであろうか。そう考えると、タカ子の左側ということが、あまり動物の本能めいて、たのしい想像ではなかったが、事実に於て右側では自分自身カッコウがつかないような感じもするから、別に深い意味のない感じの世界から発して、二人の習慣が自然に固定しただけのことかも知れなかった。

 ところが戦争から戻ってみると、タカ子は左側へ寄りそったり、右側へ寄りそったり、ねむる時にも左右不定になっていた。然し、それもムリがない。タカ子は失明しているのだから。矢島はそう考えていた。

 然し、暗号の手紙から、それからそれへと思いめぐらすうち、矢島はふと怖しいことに気がついて、一時は混乱のために茫然としたものである。

 神尾は左ギッチョであった。


          


 矢島は復員後、かなり著名な出版社の出版部長をつとめていた。ちょうど社用で、仙台へ原稿依頼にでかけることになったので、仙台には神尾の細君が疎開しており、どっちみち訪問すべき機会であるから、カバンの中へ例の本をつめこんだ。

 社用を果してのち、神尾夫人の疎開先を訪ねると、そこは焼け残った丘の上で、広瀬川のうねりを見下す見晴らしのよい家であった。

 神尾夫人は再会をよろこんで酒肴をすゝめたが、夫人もともに杯をあげて、その目に酔がこもると、いかにも生き生きと情感に燃えて、目のある女の美しさ、それをつくづく発見したような思いがした。

 神尾夫人は元々美しい人であったが、目のないタカ子にくらべて、なんという生き生きとした距へだたりであろうか。然し、この生き生きとした人が、自分と同じように、神尾とタカ子に裏切られている被害者なのだと考えると、加害者のみすぼらしさが皮肉であり、わが現実がまことに奇妙にも思われた。

 タカ子が単なる失明にとゞまらず、子供たちと同じように死んでいたら、あるいは自分は今日の機会に求婚して、この人と結婚したかも分らない。ふと、そんなことを考える。そして変に情慾的になりかけている自分に気付くと、思いは再び神尾とタカ子のこと、自分が現にこうあるように、彼らがそうであったという劇しい実感に脅やかされずにいられなかった。

 神尾の長女が学校から戻ってきた。もう、女学校の二年生であった。矢島の娘が生きていれば、やっぱり、その年の筈であった。神尾の長女は、生き生きと明るい、そして、美しい女学生になっていた。その母よりも、さらに生き生きと明るく、立ち歩き、坐り、身をひるがえして去り、来り、笑い、羞恥する目。矢島は、いつもションボリ坐っている妻、壁に手を当てゝ這いずるように動く女、またある時は彼の肩にすがって、単なる物体の重さだけとなってポソポソとずり進む動物について考える。せめて二人の子供が生きていてくれたなら、そしてこの娘のように生き生きと自分の四周を立ち歩いていてくれたなら、そんなことをふと思って、泣き迷しりたい思いになった。にわかに心は沈み、再び浮き立ちそうもなくなって、坐にたえがたくなったので、最後に例の一件をもちだした。

「実は神田の古本屋で、神尾君の蔵書を一冊みつけましてね、買いもとめて、形見がわり珍蔵しているのです」

 彼はカバンからその本をとりだした。

「神尾の本は全部お売りになったのですか」

 夫人は本を手にとって、扉の蔵書印を眺めていた。

「神尾が出征のとき、売ってよい本、悪い本、指定して、でかけたのです。できれば売らずに全部疎開させたいと思いましたが、そのころは輸送難で、何段かに指定したうち、最小限の蔵書しか動かすことができなかったのです。二束三文に売り払った始末で、神尾が生きて帰ったら、さだめし悲しい思いを致すでしょうと一時は案じたほどでした」

「欲しい人には貴重な書物ばかりでしたのに、まとめて古本屋へお売りでしたか」

「近所の小さな古本屋へまとめて売ってしまったのです。あまりの安値で、お金がほしいとは思いませんけど、あれほど書物を愛していた主人の思いのこもった物をと思いますと、身をきられるようでしたの」

「然し、焼けだされる前に疎開なさって、賢明でしたね」

「それだけは幸せでした。出征と同時に疎開しましたから、二十年の二月のことで、まだ東京には大空襲のない時でしたの」

 してみれば、神尾の蔵書が魚紋書館の同僚の手に渡ったという事もない。あの暗号の七月五日は十九年に限られており、その筆者はタカ子以外に誰がいるというのだろうか。

 その本のなかに、変な暗号めくものがありましたが、と何気なくきりだしたいと思ったが、堅く改まるに相違ないからどうしても言いだせない。目のある人間はこんな時には都合の悪いものであると矢島は思った。

 すると本を改めていた神尾夫人がふと顔をあげて、

「でも、妙ですわね。たしかこの本はこちらへ持って来ているように思いますけど。たしかに見覚えがあるのです」

「それは記憶ちがいでしょう」

「えゝ、ちゃんとこゝに蔵書印のあるものを、奇妙ですけど、私もたしかに見覚えがあるのです。調べてみましょう」

 夫人の案内で矢島も蔵書の前へみちびかれた。百冊前後の書籍が床の間の隅につまれていた。すぐさま、夫人は叫んだ。

「ありましたわ。ほら、こゝに。これでしょう?」

 矢島は呆気にとられた。まさしく信じがたい事実が起っている。同じ本が、そこに、たしかに、あった。

 矢島はその本をとりあげて、なかを改めた。この本の扉には、神尾の蔵書印がなかった。どういうワケだか分らない。腑に落ちかねて頁をぼんやりくっていると、ところどころに赤い線のひいてある箇所がある。そこを拾い読みしてみると、彼はにわかに気がついた。それは矢島の本である。彼自身のひいた朱線にまぎれもなかった。

「わかりました。こっちにあるのは、私自身の本ですよ。いったい、いつ、こんなふうに代ったのだろう」

「ほんとに不思議なことですわね」

 神尾とタカ子はしめし合せてこの本を暗号用に使った。そういう打ち合せの時に、入れちがったのではあるまいか。これぞ神のはからい給う悪事への諸人もろびとに示す証跡であり、神尾とタカ子の関係はもはやヌキサシならぬものの如くに思われて、かゝる確証を示されたことの暗さ、救いのなさ、矢島はその苦痛に打ちひしがれて放心した。

 然し一つの記憶がうかんでくると、次第に一道の光明がさし、ユウレカ! と叫んだ人のように、一つの目ざましい発見が起った。

 この本をとりちがえたのは、矢島自身なのだ。矢島は神尾にこの本を貸していたのだ。そのうちに、神尾もこの本を手に入れた。矢島に赤紙がきて、神尾の家へ惜別の宴に招かれたとき、かねて借用の本を返そうというので、数冊持って帰ってきたが、その一冊がこの本だ。そしてその本を探しだすとき、二人はもう酔っていて、よく調べもせず、持ってきた。その時、たぶん間違えたのだ。

 そのまゝ矢島は本の中を調べるヒマもなく慌たゞしく出征してしまったから、矢島の本が神尾の家に残ることとなったのである。


          


 矢島はたった一冊残っている自分の蔵書のなつかしさに、持参の本はもとの持主の蔵書の中へ置き残し、自分の本を代りに貰って東京へ戻った。

 然し、思えば、益々わからなくなるばかりであった。

 自分の留守宅にあった筈の、そして全てが灰となってしまった筈のあの本が、どうして書店にさらされていたのだろうか。

 罹災の前に蔵書を売ったのだろうか。生活にこまる筈はない。彼には親ゆずりの資産があったから、封鎖の今とちがって、生活に困ることは有り得なかった。

 矢島は東京へ戻ると、タカ子にたずねた。

「僕の蔵書の一冊が古本屋にあったよ」

「そう。珍しいわね。みんな焼けなかったら、よかったのにねえ。買ってきたのでしょう。どれ、みせて」

 タカ子はその本を膝にのせて、なつかしそうに、なでていた。

「なんて本?」

「長たらしい名前の本だよ。日本上代に於ける社会組織の研究というのだ」

 本の名を言う矢島は顔をこわばらせてしまったが、タカ子は静かに本をなでさすっているばかりである。

「僕の本はみんな焼けた筈なんだが、どうして一冊店頭にでていたのだか不思議だね。売ったことはなかったろうね」

「売る筈ないわ」

「僕の留守に人に貸しはしなかった?」

「そうねえ、雑誌や小説だったら御近所へかしてあげたかも知れないけど、こんな大きな堅い本、貸す筈ないわね」

「盗まれたことは?」

「それも、ないわ」

 すべて灰となった筈の本が一冊残って売られている。その不思議さを、タカ子はさのみ不思議とうけとらぬ様子で、たゞ妙になつかしがっているだけであった。

「あなたが、どなたかに貸して、忘れて、それが売られたのでしょう」

 と、タカ子は平然と言った。

 もとより、その筈はあり得ない。出征直前にわが家へ戻ってきた本である。

 タカ子は失明している。目こそ表情の中心であるが、その目が失われるということは、すべての表情が失われると同じことになるかも知れない。すくなくとも、目のない限りは努力によって表情を殺すことは容易であるに相違ない。タカ子の顔から真実を見破ろうとする自分の努力が無役なのだと矢島はさとらざるを得なかった。

 然し、まだ方法は残っていた。こゝまで辿ってきた以上は、つくせるだけの方法をつくして、やってみようと彼は思った。

 矢島は本を買った神田の古本屋へ赴いて本の売り手をきいてみた。帳簿になかったけれども、店主は本を覚えていて、それは売りに来たのじゃなくて、通知によって自分の方から買いに出向いたものであり、どこそこの家であったということを教えてくれた。

 そこは焼け残った、さのみ大きからぬ洋館であった。

 主人は不在で、本の出所に答えうる人がなかったが、勤め先が矢島の社に近いところだったから、そこを訪ねて、会うことができた。その人は三十五六の病弱らしい人で、さる学術専門出版店の編輯者であった。

 職業も同じようなものであったが、愛書家同志のことで、矢島の来意をきくと、一冊の書物にからまる心労にきわめて好意ある同感をいだいたようであった。

 その人の語るところはこうであった。

 もう東京があらかた焼野原となった初夏の一日、その人が自宅附近を歩いていると、あまり人通りもない路上へ新聞紙をしき、二十数冊ほどの本をならべて客を待っている男があった。立ち寄ってみると、すべてが日本史に関する著名な本で当時得がたいものばかりであったから、すでに所蔵するものを除いて、半数以上を買いもとめた。もとめた本の多くは切支丹キリシタン関係のもので、書名をきいてみると、明あきらかに矢島の蔵書に相違なかった。タケノコ資金に上代関係のものを手放したが、切支丹関係のものは手もとに残してあるから、矢島の旧蔵も十冊前後まであるという話であった。

「外へ持ちだして焼け残ったものを、盗まれたのではないでしょうか」

 と、その人が云った。

「たぶん、そうでしょう。僕の家内はその日目をやられて失明し、二人の子供は焼死してしまったのです。郷里とレンラクがとれて父が上京するまでの二週間、僕の家の焼跡を見まわる人手がなかったのですから、父が焼跡へでかけた時には、すでに何物もなかったのです。僕は然し家内が本を持ちだしたことを言ってくれないものですから、そんな風にして蔵書の一部が残っているということを想像もできなかったのでした」

 然し、こうして、矢島の蔵書が焼け残ったイワレが分ってみると、解せないことは、明に矢島の家のものであった本の中に、なぜタカ子の記した暗号があったかということであった。それをタカ子が出し忘れた、否、出し忘れるということは有り得ない、いったん書いてみたけれども、変更すべき事情が起って、別に書き改めた。そして先の一通を不覚にも置き忘れたと解すべきであろう。それにしても、神尾は死んだ。矢島の家は焼けた。家財のすべて焼失し、わずか十数冊残って盗まれた書物の中の、タカ子がたった一枚暗号のホゴを置き忘れた、秘密の唯一の手がかりを秘めた一冊だけが、幾多の経路をたどって矢島その人の手に戻るとは、なんたる天命であろうか。

 神尾は死に、タカ子は失明し、秘密の主役たちはイノチを目を失っているというのに、たった一つ地上に承った秘密の爪の跡が劫火ごうかにも焼かれず、盗人の手をくゞり、遂にかくして秘密の唯一の解読者の手に帰せざるを得なかったとは! その一冊の本に、魔性めく執拗な意志がこもっているではないか。まるで四谷怪談のあの幽霊の執念に似ている。これを神の意志と見るにしても、そら怖しいまでの執念であり、世にも不思議な偶然であった。

 矢島が感慨に沈んでいると、その人は曲解して

「僕も実はタケノコとはいえ愛蔵の本を手放したことを今では悔いているのです。こんな気持であるだけに、あなたのお気持はよく分るのですが、僕の手に一度蔵した今となっては、それを手放す苦痛には堪えられるとは思われないのが本音なのです」

 言いにくそうな廻りもった言葉を矢島は慌ててさえぎって、

「いえ、いえ。焼けた蔵書の十冊ぐらい今さら手もとに戻ったところで、却って切なくなるばかりです。僕はたゞ、わが家の罹災の当時をしのんでいさゝか感慨に沈んでしまったゞけなのです」

 と、好意を謝して、別れをつげた。


          


 その晩、矢島はタカ子にきいた。

「あの本がどうして残っていたか分ったよ。あの本のほかにも十何冊か焼け残った本があったのだ。家の焼けるまえに誰かゞそれを持ちだしているのだよ。君は本を持ちださなかったと言ったね。いったい、誰が持ちだしたのだろう。君が忘れているんじゃないか。あの時のことをしずかに思いかえしてごらん」

 タカ子は失明の顔ながら、かんがえている様子であった。

「空襲警報がなって、それから、君は何をしたの?」

「あの日はもう、この地区がやかれることを直覚していたわ。そこしか残っていないのだもの。空襲警報がなるさきに、私はもう防空服装に着代えていたけれど、ねていた子供たちを起して、身仕度をつけさせるのに長い時間がかゝったのよ。やかれることを直覚して、あせりすぎていたから身支度ができて、外へでて空を見上げるまもなく、探照燈がクルクルまわって高射砲がなりだして、するともう火の手があがっていたのだわ。ふと気がつくと、探照燈の十字の中の飛行機が、私たちの頭上へまっすぐくるのです。一時に気が違ったように怖くなって、子供を両手にひきずって、防空壕へ逃げこんだのよ。その時は怖さばかりで、何一つ持ちだす慾もなかったわ。息をひそめているうちに、怖いながらも、だんだん慾がでてきたのよ。そのとき秋夫がお母さん手ブラで焼けだされちゃ困るだろうと言ったの。すると和子が、そうよ、きっと乞食になって死んでしまうわ、ねえ、何か持ちだしてよ、と言ったのよ。私たちは壕をでたの。そのときは、もう、四方の空が真ッ赤だったわ。けれどもチラと見たゞけよ。私たちは夢中で駈けたの。あのときは、でも、私の目は、まだ、見えたのよ。空ぜんたい、すん分の隙もなく真赤に燃えていたわ。そうなのよ。ゆれながら、こっちへ流れてくるようにね、ぜんたいの火の空が」

 火の空をうつしたまゝ、タカ子の目は永遠にとざされ、もしや、今も尚タカ子の目には火の空だけが焼き映されているのではないかと矢島は思った。その哀切にたえがたい思いであった。

 真実の火花に目を焼いて倒れるまでの一生の遺恨を思いださせる残酷を敢てしてまで、埋もれた過去の秘密をつきとめることが正義にかなっているかどうか、矢島はひそかにわが胸に問うた。彼の答のきまらぬうちに、タカ子の言葉はつづいた。

「私は臆病だから、恐怖に顛倒して、それからのことはハッキリ覚えがないのよ。三度ぐらいは、たしか往復したはずよ。食糧とフトンと、そんなものを運んだと思っているけど、あの時は、まだ、目が見えていたのだけれどね、目に何を見たか、それが分らなくなっているの。私が最後に見たものは、物ではなくて、音だったのよ。音と同時に閃光が、それが最後よ。ねえ、私はあの晩、子供たちに身支度をさせたの、手をひいて走って、防空壕にかたまって身をすりよせて、そのくせ、私は子供の姿を見ていない。私が最後に見たものは、焼ける空、悪魔の空、ねえ、子供は私をすりぬけて、何か運んで、すれちがっていたはずなのに、私はその姿を見ていないのよ。ねえ、どうして見えなかったのよ。見ることができなかったのよ。ねえ、私はどうして、何も見ていなかったのよ」

「もう、いゝよ。止してくれ。悲しいことを思いださせて、すまない」

 タカ子には見えるはずがなかったから、矢島は耳を両手でふさいで、ねころんだ。そして、もうこれ以上追求は止そうと思った。

 然し、翌日になって別の気持が生れると、あれはあれであり、これはこれである筈、失明の悲哀によって秘密を覆う、それもタカ子の一つの術ではないかという疑い心もわいた。一枚のヌキサシならぬ証拠がある。魔性のような執念をもって火をくゞり良人の手にもどるという事実の劇しさは女の魔性の手管を破って、事の真相をあばいて然るべき宿命を暗示しているようにも思われた。

 その日出社すると、昨日会った彼かの蔵書の所有主から電話がきた。

「実はです」

 声の主は意外きわまる事実を報じた。

「昨日申し上げればよかったのですが、今になって、ようやく思いだしたのです。あなたの昔の蔵書にですな、買った当時中をひらくと、どの本にも、頁の心覚えのような数字をならべた紙がはさんであったのです。その人にしてみれば、大事の控えだろうと思いましてね、まさか旧主にめぐり会うと思ったわけではないのですが、マア、なんとなく、いたわってやりたいような感傷を覚えたのですね、そのまゝ元の通り本にはさんでおいてあります。御希望ならば、その控えは明日お届け致しますが」

 矢島は慌てゝ答えた。

「いゝえ、その控えは、その本と一緒でなくては、分らなくなるのです。では、お帰りに同行させていたゞいて本の中から私にとりださせていたゞけませんか」

 そして矢島は承諾を得た。

 各おのおのの本に、各の暗号がある。それは、どういう意味だろう。なるほど、彼と神尾の蔵書は、ほゞ共通してはいた。本の番号を定めておいて、一通ごとに本を変えて文通する。それにしても、彼の手にある一通には、本の番号に当る数字は見当らない。あらかじめ、本の順序を定めておいたとすれば、本の番号はいらないワケだが、それにしても、各の本に暗号がはさんであったという意味が分らない。各の本ごとに、暗号を書きしくじる、それも妙だが、それを又、本の中に必ず置き忘れるということが奇妙である。

 謎の解けないまゝ、矢島は本の所有主にみちびかれて、その人の家へ行った。

 ワケがあって、ちょッと調べたいことがあるから、十分ばかり、調べさせてもらいたいと許しをうけて、旧蔵の本をさがすと、十一冊あった。その中に二枚あるもの、三枚のもの、一枚のもの、合計して十八枚の暗号文書が現れた。

 矢島はたゞちに飜訳にかゝった。

 その飜訳の短い時間のあいだに、矢島は昨日までの一生に流してきた涙の総量よりも、さらに多くの涙を流したように思った。彼のからだはカラになったようであった。なんという、いとしい暗号であったろうか。その暗号の筆者はタカ子ではなかったのだ。死んだ二人の子供、秋夫と和子が取り交している手紙であった。

 本にレンラクがないために、残された暗号にもレンラクはなかった。然しそこに語られている子供たちのたのしい生活は彼の胸をかきむしった。

 その暗号は夏ごろから始めたらしく、七月以前のものはなかった。

 サキニプールヘ行ッテイマス七月十日午後三時

 この筆跡は乱暴で大きくて、不そろいで、秋夫の手であった。

 イツモノ処ニイマス

 という例の一通と同じ意味のものもあった。例の処とは、どこだろうか。たぶん、公園かどこかの、たのしい秘密の場所であったに相違ない。どんなに愉しい場所であったのだろうか。

 エンノ下ノ小犬ノコトハオ母サンニ言ワナイデ下サイ九月三日午後七時半

 ナイテイルカラカクシテモワカッテシマウト思イマス

 小犬のことは、そのほかにも数通あった。その小犬の最後の運命はどうなってしまったのだろう。それは暗号の手紙には語られていなかった。

 兄と妹は、こんな暗号をどこで覚えたのだろうか。戦争中のことだから、暗号の方法などについても、知る機会が多かったのだろう。

 二人にとっては暗号遊びのたのしい台本であったから、火急の際にも、必死に持ちだして防空壕へ投げいれたのに相違ない。自分たちの本を使わずに、父の蔵書の特別むつかしそうな大型の本を選んでいるのも、そこに暗号という重大なる秘密の権威が要求されたからであったに相違ない。

 その暗号をタカ子のものと思い違えていたことは、今となっては滑稽であるが、戦争の劫火をくゞり、他の一切が燃え失せたときに、暗号のみが遂に父の目にふれたというこの事実には、やっぱりそこに一つの激しい執念がはたらいているとしか矢島には思うことができなかった。

 子供たちが、一言の別辞を父に語ろうと祈っているその一念が、暗号の紙にこもっている、そう考えることが不合理であろうか。

 矢島は然し満足であった。子供の遺骨をつきとめることができたよりも、はるかに深くみたされていた。

 私たちは、いま、天国に遊んでいます。暗号は、現にそう父に話しかけ、そして父をあべこべに慰めるために訪れてきたのだ、と彼は信じたからであった。




初出:「サロン別冊 特選小説集・第二輯」

   1948(昭和23)年520日発行

坂口安吾の探偵小説

作者と読者との知恵くらべを通して謎解きゲームを楽しむことを推理小説の本領とみなした坂口安吾。

短編ミステリー小説には「投手殺人事件」「屋根裏の犯人」「南京虫殺人事件」「選挙殺人事件」「山の神殺人」「正午の殺人」「影のない犯人」「心霊殺人事件」「能面の秘密」などがある。


〈犯人は誰で、如何なる理由によって、如何にして殺人を犯し、如何にアリバイをつくっておいたか、小説の最後に於て解き明かされる事柄が、構想の最初に於て、明確に、予定せられておらなければならず、執筆の途中で、作中人物が構想をハミだして勝手なことを始めたのでは、おさまりがつかない。

 つまり、実際に犯罪がすでに行われ、そこにヌキサシならぬ犯人がなければならぬタテマエなものを、執筆の途中から、犯人がスリ代っては、話にならない。予定をハミだすことのできない性質のものだ。

 だから、推理小説の原則は、文学よりも、パズルで、パズルとしてメンミツに計量され、構想された上で、それをヒックリ返して、書きすすめて行くものである。〉

(坂口安吾『探偵小説とは』より)


推理小説を楽しみにして読んでいた安吾は、かねがね構想していた『不連続殺人事件』について、以下のように告げている。


〈私自身もそのうち一つだけ探偵小説を書くつもりで、その節は大いに愛好者諸氏とゲームを戦わすつもりである。戦争中考えていたので、八人も人が死ぬので、長くなるので却々時間がなくて書きだす機会がない。そして私はあいにくこの一つだけしかゲームの種を持ち合していない。その節は私の方から読者に賞品を賭けましょう。〉

(坂口安吾『私の探偵小説』より)



【青空文庫で読める安吾ミステリー】


坂口安吾 屋根裏の犯人 ――『鼠の文づかい』より――

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45936_39308.html


坂口安吾 心霊殺人事件

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43247_38173.html


坂口安吾 正午の殺人

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42951_35647.html


坂口安吾 南京虫殺人事件

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45938_39306.html


坂口安吾 能面の秘密

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45743_24340.html


『復員殺人事件』

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43163_59485.html

2022年10月24日 (月)

『日付変更線』上下巻・辻仁成

その出会いは偶然か、必然か。葬儀屋で働きながら作家を志す日系四世のケイン・オザキ。遺骨をハワイの海に撤いて欲しいという祖父の遺言を叶えるため、日本からやってきたマナ。ひょんなことから知り合った二人だったが、実は祖父同士が第四四二部隊という日系人だけで構成された第二次大戦の伝説的な陸軍部隊で戦友だったことが分かり、物語は大きく動き出す。七十年の時を経て紡がれる一大巨編。

ハワイに住む日系四世の小説家を目指す青年が、二世の祖父と青年との時間を交錯させながら描いた長編小説。ダイニエル K イノウエ氏がモデルになっている登場人物。戦火の悲劇やミサイルが飛び交っている今、本作へ取り組んだ情熱は深く心に突き刺さる。


作者の辻さんは博多の歓楽街・中州を舞台にした映画『中洲の子ども』を、何度かの苦節ありながら監督している最中である。

少年期に彼の過ごした博多や函館など、エッセイに綴った『そこに僕はいた』を併読すると、主人公の生きた時間と共有できる感覚が味わえる。ここにエコーズというバンドの原点がある。


ホノルル空港が「ダニエル・K・イノウエ空港」と改名された理由は、「彼がアメリカ議員初の日系人として、いまのハワイを作り上げた人物」だからであった。

https://youtu.be/MFtg-P8OknM

「この26年で掴んだあらゆる小説技術、文体、力を結集させました」と作者。

「この小説、離婚切り出された去年春に着手。執筆に専念没頭することで、心を維持させることが出来たのです。思えば命を削って獲得した血の文体です」と女優・中山美穂に離婚を持ち出されて、その後長男を引き取って男手で育てるなど、人生最大の難関を小説執筆が救ってくれという。

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