ゼレンスキー大統領がG7サミット討議に出席 招待国セッションにも
来日中のウクライナのゼレンスキー大統領は21日午前、広島市で開催されている主要7カ国首脳会議(G7サミット)に出席した。G7首脳がそろってゼレンスキー氏と対面で会うのは初めて。この日はウクライナ問題に関するG7首脳との討議に加え、インド、ブラジル、豪州など招待国も加わったセッションにも参加する。
討議に先立ち、G7首脳とゼレンスキー氏は記念撮影に臨み、笑顔で会話を交わす場面が見られた。【毎日新聞】
来日中のウクライナのゼレンスキー大統領は21日午前、広島市で開催されている主要7カ国首脳会議(G7サミット)に出席した。G7首脳がそろってゼレンスキー氏と対面で会うのは初めて。この日はウクライナ問題に関するG7首脳との討議に加え、インド、ブラジル、豪州など招待国も加わったセッションにも参加する。
討議に先立ち、G7首脳とゼレンスキー氏は記念撮影に臨み、笑顔で会話を交わす場面が見られた。【毎日新聞】
国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のダニエル・ホグスタ暫定事務局長は、先進7カ国首脳会議(G7サミット)で、19日に発表された核軍縮に向けた声明「G7首脳広島ビジョン」について「新しい内容がなく期待外れ」と厳しく批判した。時事通信とのインタビューで語った。
被爆地の広島にG7首脳が集まったことを評価しつつ、「平和記念資料館や被爆者との面会で感じたことがあるはずだが、声明に全く反映されていない」と指摘。「写真を撮って献花するだけでは意味がない」と嘆いた。
広島ビジョンを「リーダーシップの不履行だ」と批判して、核の脅威と使用リスクが高まっている世界の現状に対して「危険ですらある内容」と強調。サミットが核軍縮に向けた「ただのPRで終わるべきではない」と訴えた。
ロシアによる核の脅威にさらされるウクライナのゼレンスキー大統領が広島を訪問することに関しては「(核に対する)G7首脳の意識を高めてくれることを望むが、この声明から期待はできない」と悲観的な見方を示した。
核保有国と非保有国との「橋渡し役」を掲げる日本に対しては「ある意味、核保有に加担している」と非難。「現状を変えるつもりがあるなら、核兵器禁止条約(TPNW)を支持するのが唯一の論理的な選択だ」と述べ、今年開催予定の第2回締約国会議へのオブザーバー参加を求めた。
【時事通信社】
「ある意味、核保有に加担している」日本となってしまった。
エジプト在住の知人は約二十年前に日本を旅し、広島の原爆資料館を訪れた。当時三十歳のエジプト人に最も強い印象を与えた展示は、焼けた三輪車だったという▼原爆投下当時、爆心地から一・五キロ離れた家の前で鉄谷伸一ちゃん=当時(3つ)=が乗っていた。「水をちょうだい」と苦しんだ末、冷たくなった▼父親の信男さんは遺体を火葬する気になれず、天国でも遊べるようにと三輪車と一緒に庭に埋葬した。被爆から四十年後に骨を墓に移そうと掘り返し、三輪車は資料館に寄贈した。多くの人の心に残る展示らしく、経緯は絵本『伸ちゃんのさんりんしゃ』(童心社)に描かれた▼G7広島サミットに参加した各首脳も、展示に何かを感じただろうか。一行が昨日、資料館を訪れた。滞在は約四十分。何を見たのか気になるが、小欄執筆時点で詳細は明らかではない。七年前に訪れたオバマ米大統領(当時)は滞在約十分。ロビーに一部の収蔵品が集められ、斃(たお)れた人の遺品となった弁当箱などを見たと後に報じられている▼先の絵本は、年を重ねた信男さんが孫たちに伸ちゃんの話を聞かせる形で進む。最後にこう語りかける。「さんりんしゃで、おもいきりあそべるよのなか、へいわなよのなかにしようねえ」▼子どもたちが遊び、弁当を持って出掛けた家族もちゃんと帰ってくる日々を守ることこそ、政治の務めだろう。
【東京新聞】筆洗い5月20日より
「横浜港にカジノはいらん!」
徹頭徹尾、一歩も譲らず誘致を阻止した91歳(当時)。市民の筆頭に立ち、誘致を勧める政権と対立した横浜港ハーバーリゾート協会会長、藤木幸夫氏を追ったドキュメンタリー映画「ハマのドン」全国公開。
【予告編】
https://youtu.be/uSUVgsSdw2U
解説 2021年度テレメンタリー最優秀賞、第23回ワールド・メディア・フェスティバルのドキュメンタリー部門で銀賞に輝いたテレビ朝日製作のドキュメンタリーの劇場版。
カジノ誘致問題をめぐり、賛成派と反対派が対峙した横浜市長選挙に、91歳で挑む反対派の藤木幸夫に密着した。監督は松原文枝。ナレーションはリリー・フランキーが担当する。
◎放送法
目次
第一章 総則(第一条―第六条)
第二章 日本放送協会(第七条―第五十条)
第三章 一般放送事業者(第五十一条―第五十三条)
第四章 罰則(第五十四条―第五十九条)
附則
第一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
(定義)
第二条 この法律及びこの法律に基く命令の規定の解釈に関しては、左の定義に従うものとする。
一 「放送」とは、公衆によつて直接受信されることを目的とする無線通信の送信をいう。
二 「国際放送」とは、外国において受信されることを目的とする放送をいう。
三 「放送局」とは、放送を目的として開設する無線局をいう。
四 「放送番組」とは、放送をする事項の種類、内容、分量及び配列をいう。
(放送番組編集の自由)
第三条 放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。
(訂正放送等)
第四条 放送事業者(電波法(昭和二十五年法律第百三十一号)の規定により放送局の免許を受けた者をいう。以下同じ。)が真実でない事項の放送をしたという理由によつて、その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人から、放送のあつた日から一週間以内に請求があつたときは、放送事業者は、遅滞なくその放送をした事頂が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から二日以内に、その放送をした放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で、訂正又は取消の放送をしなければならない。
2 放送事業者がその放送について真実でない事項を発見したときも、前項と同様とする。
3 前二項の規定は、民法(明治二十九年法律第八十九号)の規定による損害賠償の請求を妨げるものではない。
(国際放送)
第五条 国際放送は、国際親善を害するものであつてはならない。外国において放送をする目的で編集した放送番組を外国に送信する場合も、同様とする。
(再放送)
第六条 放送事業者は、同意を得なければ、他の放送事業者の放送を受信して、その再放送をしてはならない。
第二章 日本放送協会
(目的)
第七条 日本放送協会(以下単に「協会」という。)は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように放送を行うことを目的とする。
(法人格)
第八条 協会は、前条の目的を達成するためにこの法律の規定に基き設立される法人とする。
(業務)
第九条 協会は、第七条の目的を達成するため、左の業務を行う。
一 全国的及び地方的放送を行うため、放送局を設置し、維持し、及び運用すること。
二 国際放送を行うため、放送局を設置し、維持し、及び運用し、又は政府の施設を使用すること。
三 放送番組を編集すること。
四 放送の進歩発達に必要な研究施設を設置すること。但し、協会の研究活動は、放送番組又は放送技術に密接に関連するものに限る。
2 協会は、前項の業務の外、第七条の目的を達成するため、左の業務を行うことができる。
一 放送番組編集上必要な劇団、音楽団等を維持し、養成し、又は助成すること。
二 協会が放送することを主たる目的とする公開演奏会その他の催を主催し、又は後援すること。
三 放送の普及発達に必要な周知宣伝を行い、出版をし、及び放送の受信に関し公衆の相談に応ずること。
四 放送番組編集上必要な文芸、音楽、美術及び学術の著作権を取得し、使用し、又はその使用を承認すること。
五 放送に必要な特許権及び実用新案権並びにこれらの実施権を取得すること。
六 放送番組編集のため、ニユース及び情報を収集し、並びにこれを他人と交換すること。
七 委託により放送受信用機器を修理すること。
3 協会は、前二項の業務を行うに当つては、営利を目的としてはならない。
4 協会は、放送受信用機器若しくはその真空管又は部品を認定し、放送受信用機器の修理業者を指定し、その他いかなる名目であつても、無線用機器の製造業者、販売業者及び修理業者の行う業務を規律し、又はこれに干渉するような行為をしてはならない。
5 第二項第七号の放送受信用機器の修理業務は、電波監理委員会が、定期的に行う調査により、放送を受信する者が放送受信用機器の修理業者を利用するのに著しく不便と認め、又は放送を受信する者の利益を図るため必要と認めて指定した場所に限り行うことができる。
【つづき】
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/00719500502132.htm
総務省は7日、放送法の政治的公平性をめぐる首相官邸側と総務省側の安倍政権下のやりとりを記したA4計約80枚の内部資料について、すべて同省の行政文書と認め、公開した。一方、高市早苗経済安全保障担当相は文書にある総務相時代の発言について、「捏造(ねつぞう)で内容は不正確」と改めて否定した。
松本剛明総務相は7日の閣議後の記者会見で「作成者が確認できなかった場合もあるが、確認できない場合であっても前後の資料などから、総務省が取得、または作成したと判断できるに至った」と述べ、公文書管理法に基づく行政文書にあたると説明した。内容の一部については「正確性が確認できないものがある」として、引き続き精査する方針を示した。行政文書と認めたことを受け、総務省は7日にホームページで、該当文書を全文公開した。
文書は立憲民主党の小西洋之参院議員が2日に公表した。放送法の政治的公平性をめぐり、極端な場合は一番組でも不公平になりうるとの解釈が追加される過程で、当時の礒崎陽輔首相補佐官が総務省側に働きかけを行う2014~15年のやりとりが記されている。礒崎氏は朝日新聞の取材に「総務省と意見交換をしたのは事実だが、最終的には権限のある総務大臣が判断したことだ」と話した。
【朝日新聞】2023/3/7
【そもそも解説】放送法の政治的公平とは 処罰目的より「努力目標」
「不偏不党」や、権力に操られず独立して運営する「自律の保障」に基づいて、表現の自由を確保するように定めている。
「何人からも干渉され、又は規律されることがない」
「公安及び善良な風俗を害しない」
「政治的に公平である」
「報道は事実をまげないでする」
「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」
高市氏「辞職迫るなら立証を」 文書は「捏造で不正確」と重ねて主張
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も終わりに近づいて、実朝の代表的な歌たちを旅する。
「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
歌の盟友たる後鳥羽上皇への恭順の意を表した歌とされる。
「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも」
「古寺のくち木の梅も春雨にそぼちて花もほころびにけり」
源頼朝が父の菩提を弔うために建立した勝長寿院の梅を詠んだもの。
[ちはやぶる伊豆のお山の玉椿八百万代も色はかはらし」
「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ」
箱根や伊豆を訪れた時に歌われた首たち。
「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」
建暦元年の洪水の被害に「恵みの雨も過ぎると民は嘆くことになる」から、雨を司る八大龍王に祈念して詠まれた。
「ものいはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ」
「世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも」『小倉百人一首』より
「風さわぐをちの外山に雲晴れて桜にくもる春の夜の月」
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場に植えられている実朝桜の碑にある首。
「こむとしもたのめぬうはの にたに秋かせふけば 雁はきにけり」
「いま来むとたのめし人は見えなくに秋かせ寒み雁はきにけり」
帰国して戻らない近臣の東重胤へ帰参するよう催促するのにに詠んだという。
「君が代も我が代も尽きじ石川や瀬見の小川の絶えじとおもへば」
鴨長明の「石川や瀬見の小川の清ければ月も流れも尋ねてぞすむ」を元にした首。
「瀬見の小川は、京都の下鴨神社が鎮座する糺の森を流れる川」
「夕されは秋風涼したなばたの天の羽衣たちや更ふらん」
「彦星の行合をまつ久方の天の河原に秋風ぞ吹く」
「桜花ちりかひかすむ春の夜のおぼろ月夜のかもの川風」
京都鴨川には『新古今和歌集』を編纂させた後鳥羽上皇、『金塊和歌集』を編んだ源実朝の歌碑がある。
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kamogawa-kahi.html
通称「鴨川四季の歌碑」と呼ばれている。
源実朝は「実権を北条政子や北条義時に握られ、和歌にふけるようなった」ともいわれる。和歌は曲節をつけて詠み上げられる(披講)。神仏と交感して、天下泰平・国土安穏を願われた。
後鳥羽上皇は蹴鞠や和歌を極めた。実朝にとって和歌は、後鳥羽上皇と良好な関係を築くのに不可欠なことたったようだ。
「出でて去なばぬしなき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」
実朝が暗殺された日に詠まれたと伝えられる。承久元年1月27日、実朝は甥の公暁によって暗殺される。実朝が暗殺されたのは、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式後だった。拝賀式に出掛けるとき、実朝はこの歌を詠んで、髪を結ってくれた者に髪の毛を与えて出て行ったという。
源実朝は『金槐和歌集』を作成したほど和歌の才に恵まれた人物で、後鳥羽上皇も和歌を得意としていた。それもあってか二人の相性はよかったらしく、後鳥羽上皇は自分の娘を妻として差し出し右大臣に任命するなど、源実朝に対して過分な官位も授けていた。
後鳥羽上皇の下命によって編纂された八番目の勅撰和歌集『新古今和歌集』は、上皇の精撰への情熱に応じて、長期にわたって改訂の手が加えられた。
〈後鳥羽上皇の十首〉
(一)「みわたせば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なにおもひけむ」
水無瀬川に別荘を作り、遊女や白拍子を招き、羽目を外した遊び三昧の日々を過ごしたという。(二)「桜さく 遠山鳥の しだり尾の ながながし日も あかぬいろかな」
山鳥から遠い場所となる都に院はいる。閑寂な雰囲気はなく、飽きないという帝王。(三)「山里の 峰の雨雲 途絶えして ゆふべ涼しき 真木の下露」
定家の名歌「春の夜の 夢の浮橋 途絶えして 峰にわかるる 横雲の空」を意識しているのか。(四)「寂しさは 深山の秋の 朝くもり 霧にしをるる 真木の下露」
寂連の「寂しさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」をなぞっているようだ。(五)「このころは 花も紅葉も 枝になし しばしなきえそ まつの白雪」
定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」を拝借している。(六)「奥山の おどろがしたも 踏みわけて 道あるよぞと 人にしらせむ」
承久の乱前夜、鎌倉方への宣戦布告ともとれる、帝王の一首となる。(七)「我こそは 新島守りよ 隠岐の海の 荒き波風 こころしてふけ」
乱に敗れて隠岐へ流される。「後鳥羽院遠島百首」から、遠島百首が続く。
(八)「古里を 別れ路におふ 葛のはの 風はふけども かへるよもなし」
古里に帰る術もなく、後鳥羽院も古里が恋しいのだろうか。(九)「眺むれば 月やはありし 月ならぬ 我が身ぞもとの 春にかはれる」
あの時みた月はもはや同じ月ではない。時は変わってしまったが、自分だけは変わらずにいる。これ沈鬱な歌は「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」(在原業平)からパクっている。(十)「同じ世に またすみのえの 月や見む けふこそよその 隠岐つ島守り」
晩年は寂しく過ごしたのか、でも住むならやっぱり、よその隠岐ではなく住の江がいい。さすがの帝王も意気消沈している。
「このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首にはすぎざるべし。しかるを、今かれこれえらべるところ、三十首にあまれり」新古今和歌集(仮名序)
「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」(後鳥羽院)
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、後鳥羽上皇を歌舞伎役者の尾上松也さんが演じているが、ドラマにおいては最終局面に待ち受けているボスキャラ的な位置付けとなってる。
上皇が主人公・北条義時を打倒するため挙兵し、承久の乱が勃発する史実があり、そこへ最終回は向かっている。
そんな上皇は治承4年7月に、高倉天皇の第4皇子として生まれた。母は坊門信隆の娘・殖子。安徳天皇と後鳥羽天皇は、異母兄弟の関係にあった。平家政権の末期、治承4年8月に、源頼朝を中心に勢力が、反平家の旗を掲げて挙兵。寿永2年7月には、木曽(源)義仲の軍勢が都に迫り、対抗できぬとみた平家一門は、幼い安徳天皇を連れて西国に落ちてゆく。
都に天皇がいなくなる異常事態を解消するために、後白河法皇を中心に、新帝の即位が進められる。新帝の候補は第3皇子の惟明親王の遺児・北陸宮と、第4皇子の尊成親王。後白河法皇の後押で尊成親王が受ける。
皇位の象徴、三種の神器(八咫鏡 ・草薙剣 ・八坂瓊曲玉)は平家によって持ち去られて、後鳥羽は神器なき践祚をした。
平家は壇ノ浦で滅亡するが、神器の1つである宝剣は、海上に没して二度と見つからない。神器なき践祚をして、後年まで後鳥羽のコンプレックスとなり、強力な王権の存在を内外に示す。それが承久の乱の遠因となったともいわれる。
建久3年に後白河法皇が崩御。朝廷は九条兼実が主導、兼実は政変により失脚。建久9年、後鳥羽は土御門天皇に譲位。承久の乱が起こる1221年まで、土御門・順徳・仲恭天皇の3代、23年にわたり続く。
後鳥羽院は最初から鎌倉幕府を打倒しようとしたのではなく、幕府3代将軍・源実朝との関係は密で、生母の弟である坊門信清の娘を実朝の妻として鎌倉に下向させている。
実朝と正室の間には子どもがなく、幕府では後継者問題があり、幕府は後鳥羽院の皇子をいずれは4代将軍として鎌倉に迎えたいと考えてい。それは朝廷と幕府融和につながり、朝廷が幕府を動かすのも容易になる。
だが建保7年に実朝は甥の公暁(幕府2代将軍・源頼家の遺児)によって、鎌倉は鶴岡八幡宮において殺害されてしまう。実朝暗殺から後鳥羽院の考えは急転、親王の派遣を拒絶する。
『愚管抄』(僧侶・慈円の史論書)には、後鳥羽院の気持ちを「どうしてこの先、この日本国を2つに分けるようなことができようか」と記している。友好的な実朝亡き今、自らの皇子を鎌倉に下すのは、国分裂のもとになると院は踏んでいた。実朝暗殺は朝廷と幕府の関係を悪化させて承久の乱の遠因となる。
承久の乱は後鳥羽院方の敗北に終わる。後世まで徳なき上皇と、批判の対象となってしまう。しかし後鳥羽院は蹴鞠・琵琶・秦箏・笛などの芸能や、相撲・水練・射芸などの武技を嗜む多才多芸な人物だった。中世屈指の歌人としても再評価される。
承久の乱の敗北後、後鳥羽院は隠岐島へ配流され、都の土を踏むことはなく延応元年に隠岐島で崩御した。