『荘子』逍遥遊篇
a、「天地の正に乗じ、六気の弁に御して、もって無窮に遊ぶ者は、かれはたなにをか待たんや〔以遊無窮者、彼且悪乎待哉〕。故に曰く『至人は己無く(自己に固執せず)、神人は功無く(作為を施さず)、聖人は名無し(至人は名声に関心を抱かぬ)」(P38)
b、「山に神人の居るあり。五穀を食わず、風を吸い、露を飲む。雲気に乗り、飛竜に御して、四海の外に遊ぶ」(P42)
2)斉物論篇
「夫子に聞く。『聖人は務めに従事せず、利に就かず、害を違らず、求むるを喜ばず、道に縁らず、謂うことなきも謂うあり。謂うことあるも謂うなくして、塵垢と」(P81)
3)人間世篇
「物に乗じてもって心を遊ばしめ、已むを得ざるに託してもって中を養わば至れり」(P119)
4)徳充符篇
a、「魯に、兀者(足切りの刑に処せられた人間)王駘あり。これに従いて遊ぶ者、仲尼(孔子〕あいしく、常季〔孔子の弟子〕仲尼に聞いて曰く、『王駘は兀者なり。これに従いて遊ぶ者、夫子と魯を中分する。立ちて教えず、座して議せず、虚にして往き、実にして帰る。もとより不言の教あり、形なくして心成れる者か。これ何人ぞや』。仲尼曰く、『夫子は聖人なり。丘やただに後れていまだ往かざるのみ。丘もって師とせんとす。而るをいわんや丘にしかざる者をや』」(P135)
b、「かの然るがごとき者は、はた耳目の宜きところを知らずして、心を徳の和に遊ばしむ」(P137)
c、「徳長ずる所あれば、而ち形忘るる所あり。人、その忘るる所を忘れずして、その忘れざる所を忘る、これを誠忘という。故に聖人は遊ぶ所あり、而して知を孽〔災い〕となし、約を膠(接着剤〕となし、徳を接(補足)となし、工を商となす。聖人は謀らず、いずくんぞ知を用いん。斲らず、いずくんぞ膠を用いん。喪うなし、いずくんぞ徳を用いん。貨らず、いずくんぞ商を用いん」(P152)
4)大宗師篇
a、「堪坏これ〔「道」〕を得て、もって崑崙に襲る。馮夷これを得て、もって大川(黄河)に遊ぶ。肩吾これを得て、もって太山の処る。・・・」(P168)〔堪坏、馮夷、肩吾は、解説によれば神仙〔神通力をもった人〕のこと〕
b、「たれかよく天に登り、霧に遊び、無極に・・・」(P180)
c、「孔子曰く、『かれは方〔法律〕の外に遊ぶ者なり。而して丘〔きゅう:孔子〕は方の内に遊ぶ者なり。外内あい及ばず。而るに丘、なんじをして往きてこれを弔せしむ。丘はすなわち陋なり。かれはまさに造物者と人となりて、天地の一気(宇宙の根元)に遊ばんとす」(P180~181)
d、「『なんじ何を持ってかの遥蕩恣睢〔動揺したい放題〕転徒の塗に遊ばんとするか』。意而子曰く、『然りといえども、われ願わくはその藩に遊ばん』(P188)
5)応帝王篇
a、「予はまさに造物者とともに人たらんとす。厭けばまた、かの莽眇〔多くの微小なもの、深遠、また軽いさま〕の鳥に乗じて、もって6極の外に出でて、無何有〔無為〕の里に遊び、以ての野に拠らんとす」(P198)
b、「〔明王=賢明な君主〕名を挙ぐるなく、物をして自ら喜ばしむ。不測に立ちて無有に遊ぶ者なり〔立乎不測而遊於無有者也〕」(P200)
6)外篇
a、「臧問と穀と二人あいともに羊を牧してその羊を亡う。臧に奚(なに)をか事とせしと問えば、筴を挾みて書を読むという。穀に奚をか事とせしと問えば、博塞してもって遊ぶという」(P223)
b、「子貢、南のかた楚に遊びて、晋に反り、漢陰を過ぎて、一丈人のまさに圃畔(ほけい)をなさんとするを見る」今われ雕陵〔丘陵の名前〕に遊びてわが身を忘れ、異鵲〔鵲はカササギ〕わが顙〔額〕に感れ、栗林に遊びて真を忘る」(P247)
c、「嘗みにあいともに無何有の宮に遊び、同合して終窮するところなきを論ぜんか。嘗みにあいともに無為ならんか」(P259)
7)雑篇
a、「われわが子と遊ぶところは、天地に遊ぶなり。われこれと楽を天に遨(あそびまわる〕え、われこれと食を地に遨う」(P291)
b、「なんじとともに遊ぶ者またなんじに告ぐるなし。かれの小言するところは、ことごとく人毒なり。覚(さと)すことなく悟ることなし。なんぞあい孰(つまびら)かにせんや。(P313)
c、「巧者は労して知者は憂う。無能なる者は求むるところなく、飽食して豪遊す。汎として繋がざる舟のごとく、虚にして豪遊する者なり。」(P313)
大濱晧:『荘子の哲学』より