まだ自販機が珍しい頃に、新製品のチェックを丹念ににすることで、赤瀬川工房では、「またか〜」といわれるほど新しいものには興味深々。
所謂ナウイ若者ではないのは、変化球が細やかなんですね。
渡辺和博くんのエッセイが、一般の人たちに受けたのは、そのあたりにあると思います。
本人自身は広島での被爆者二世で、用心深い性格でしたが、面白いことにはノーガードで飛び込んで行くんですね。
この辺りは「モーゼルのカッチヤン」という、満洲での出来事を長井勝一さんから、上手に聞き出した才能につながっていると思います。
なべぞの面白さは、非言語ながなも独自の言い切りかたなんですね。あれは単なる広島人ではなくて、独特の奇妙な面白さがありました。
東北育ちのぼくからすると異国な風情があり、都内にはさまざまなな人種がいるもんだと。写真専門学校に通っていた、渡辺和博くんにとっても、画像を手描きでどんどんする、ぼくのような視覚表現する存在は新鮮だったのでしょう。
それで物凄く吸収し合っておりました。あの異種さはとても言葉にははみ出すように別格で、いろんなことが出来るマンガを描くしかない運命でありましたね。そんなチャンスを与えてくださいました南伸坊さんは、素晴らしい先見がありました。
なべぞの面白さは、非言語ながなも独自の言い切りかたなんですね。あれは単なる広島人ではなくて、独特の奇妙な面白さがありました。
月刊漫画ガロfacebookより

渡辺くんの言うことは、すべて冴えていて、あの天才的なキレは誰もが描き切れてはいない。
魚座特有の♓️変化球というか、限りなく変態ってとこから超日常との過激な往来を軽快にする。
A形の几帳面さは表現にミステイクがなくて、人を安心させつつも前例なき変化自在ぶりは笑わせてくれた。
そして運動神経は低くて、メカニカルなことには探求する。そんな超オタク気質は1970年の頃には早すぎた浮上だった。浮いた挙げ句に、ヘタウマを台頭するのである。
とにかく本人が好奇心あることを、推進させてしまうのだが、あまり嫌われなくて遂行するも才能なんだろ。
愉快な雰囲気を醸し出して、気遣うのは、まさしく陛下さまだった。
(でわまた来週)
渡辺和博(わたなべ かずひろ)と稲垣足穂(いながき たるほ)は、日本のサブカルチャーや前衛的な文化の文脈において、「戦前モダニズムと1970〜80年代サブカルチャーの精神的・美学的つながり」を示す象徴的な組み合わせです。
お二人の特徴と、文化的な結びつきについては以下の通りです。
特に『Jam』の創刊メンバーである高杉弾などは、少年時代から稲垣足穂の著作を耽読しており、足穂の持つ「アヴァンギャルドで、既存の文学の枠にはまらない無機質なセンス」が、渡辺らが作った80年代パンク・ニューウェイブ系のサブカルチャーの土台となりました。
渡辺和博が編集長として推し進めた『ガロ』の「ヘタウマ」や「面白主義」は一見、ナンセンスで即物的に見えますが、その根底には「お高くとまった近代文学・芸術への批評精神」がありました。これは、かつて日本のジメジメした私小説的文壇を嫌い、星やオモチャの世界に美を見出した稲垣足穂の「アンチ・アカデミズム」の姿勢と深く共鳴するものでした。
足穂の再評価を決定づけた美麗な装丁の数々は、デザイナーの羽良多平吉などが手がけています。渡辺和博はこうしたデザイナーや編集者たちと同じメディアの現場(『Jam』など)で机を並べており、お互いの美意識が混ざり合う中で「タルホ的宇宙」と「80年代サブカルチャー」が地続きになっていきました
なべぞの面白さは、非言語ながなも独自の言い切りかたなんですね。あれは単なる広島人ではなくて、独特の奇妙な面白さがありました。
東北育ちのぼくからすると異国な風情があり、都内にはさまざまなな人種がいるもんだと。
写真専門学校に通っていた、渡辺和博くんにとっても、画像を手描きでどんどんする、ぼくのような視覚表現する存在は新鮮だったのでしょう。
それで物凄く吸収し合っておりました。
あの異種さはとても言葉にははみ出すように別格で、いろんなこが出来るマンガを描くしかない運命でありましたね。
そんなチャンスを与えてくださいました伸坊さんは、素晴らしい先見がありました。
大学以外でも育成機関に深く関わって、人の才能を伸ばすことの大切さを知りました。
「どこの世界から、きたんじゃ」
と思う断言するなへぞ言葉と、人工的な世界が大好きな体質。やはりモダン志向な稲垣足穂大全を読んでいて、企画編集者の川仁宏さんとはあうんですね。
あれはまるで皇族な佇まいのようないきかたは、ただならない生涯でありました。あの決定する言い方は平民ではありません。独特の優しさも普通の身分ではなくて。
「モーゼルのカッちゃん」みたいなヘタウマなマンガを、なべぞについて描いてみたくなりましたね。「カメラを持った和博くん」
あんなに親しく寄り添ってくれたのに、わけわかんない人だと呆れてしまう。けれども今なら分かります。いろんな人にあって仕事してますから。作画能力ない人は、見下してたんで、まぁいいかあと。
アニメは上手な人たちの世界なんで、ぼくは飽きてしまうことがあります。わくわくする不器用さに飢えてたりします。
阪神に十年くらい住んでいると、京都、奈良、神戸の気質は激しく分かります。
そして広島から来てる学生は、独特の乱暴な言動ことで、渡辺和博くんを思い出すんです。女子が堂々と非行動の男子を叱咤するのは、東日本にはありえない風習で驚きました。あの紋切りの言い方と、判断は広島気質のうえに家系もあったんだろうなと。
美学校の頃は、なべぞに深く感情移入することはなくて、申し訳ありませんでした。
都会にもやさしい人がいるんだと、改めてキャラクターの意外な点に想いますね。
『ヘタウマな和博くん』ちとおもしろいので、マンガにしたいです。
《なべぞ七訓》
1.絵がヘタでも、面白いことは伝えられる
2.モノを写すというカメラと現像は、現実感触としていた
3.異性に関しての好奇心は、父母の交尾に興奮する体質
4.広島という西日本でも乱暴な風習を、都内で面白ろがってた
5.美学校で講義で学んだマニエリズムについて、口癖のように言っていた。
「何にも作らないことも、(創作として)あるんだ」と。
6.なべぞの名前つけたくらい親友だったのに、知られていないことが。
7.晩年は全く合うこともなく、過ごした日々について語りたい。
当時は18才と22才の都内での年差は、プロとアマチュアのようであったのです。
たぶん美学校では、講師以上に、学習させていただきました。
ぼくは分裂気質なんで、躁鬱気質のなべぞからは、冷たい人間だと思われれてしまうのが残念だった。
これほど人間について、いろんなことと、感覚を教えてくれる人は生涯おりません。
長井さんの人間だからって、凄い教訓です。
なべぞの教訓も思い出したら、記録しておきます。浜津守
【訃報】
美学校代表 藤川公三 さん逝去のお知らせ
2026年9月4日に逝去いたしました。
享年77歳でした。合唱。
美学校 事務局では1973年〜1975年くらいまで、小生はアルバイトをしておりました。
四年先輩の藤川さんには、事務局では度々お世話になりました。ありがとうございます。
追放された野次馬―思想的変質者の十字路 (現代評論社1972年8月25日発行)
質の高いアカデミックな月刊誌『現代の眼』があり、大学教授、作家、評論家の内でも権威ある雑誌で「原稿料はいらないから原稿を書かせてくれ」と有名大学教授がいたと
夏休みに絵文字教室でのクラスメイト渡辺和博くんから、三回くらい手紙が来た。
「平凡パンチ7月31号を観たかナ?『反戦バス』ポスター入り記事が載ってました」
美学校のシルクスクリーン教室機材で、印刷技術を覚えたので、チラシ、カード、Tシャツなどにプリントして試した。夏休み前にベ平連からポスターの仕事を取ってきたのだ。
Discover Japanブームに乗って、著名人たちと共にを「反戦バス」を東西方向に行くツアーからの依頼だった。反戦バス企画そのものよりも、渡辺くんが閃いたというポスターのキャプションと画像イメージが凄いと思い、二人で短期間で制作した。渡辺くんは写真専門学校を三年やって、絵も描けるわけでないのに、絵文字教室に来て一番仲良しだった。広島弁を効果的に混ぜて話す内容が面白くて、写真撮影してるだけに彼が観た映画や演劇の話が興味深いものだった。僕はプロの先生から教室ではレタリングを覚えて、高校生の頃からしてたペン画を沢山描いてた頃だった。そんな絵と文字の実技について渡辺くんは最下位で、なんで美学校に来ているのかと多くの生徒や教師に疑問視されてたようだ。
しかし渡辺くんの放つアイデアや図案発想が、抜群に優れたものであったのも紛れ当たりではない。後々『金魂巻』で《マル貧マル金》を全国的なブームをさけて、稀なる異才ぶりを発揮されている。この発案を眠らせるわけにはならず、勉強中のレタリングをプロモードまで高める。そして乗り乗りのパロディーイラストは一気に美学校の自習時間に完成していった。
写真撮影と現像を本格的にやってた渡辺くんは機材の扱いが上手で、シルクスクリーンの現像にも感覚を活かして、ポスター全判サイズ原版を見事に作成した。教室のある神保町には出版社と紙問屋が多く、日頃から印刷物に相応しい紙を物色してたので、グラデーション入り印刷作業まで快適に進められた。納品した反応は良かったということまで渡辺くんから聞いて、夏休みとなっていた。
美学校に感謝したのは、年齢や学歴による制限もななかったこと。アマチュアだった僕ら学生たちが、半年足らずで図案印刷の仕事を納品できたのだ。普通の美大のように、デッサンなどの実技入試が全くなかったから、出会えた才能ということが大きい。
残念ながら1972年「平凡パンチ」7月31号に掲載された記事を観てもいなければ、反戦ポスターも保存していない。
美術手帖に赤瀬川さんが当時連載してた「資本主義リアリズム講座」が評判となり、僕らに番外篇の担当がまわってきた。東京医科歯科大学の学祭イベント雑誌からの依頼だった。大枠と構成を赤瀬川さんと南伸坊さんがやり、その他の記事をなべぞと僕がアシスタント作業するというものだった。
内容と企画も乗り気じゃないのに、僕は作業を進めてしまうのだが、乗り気じゃないのが全体に溢れてしまった。御茶ノ水にある医科歯科大学には、人体解剖の実技教室まで見学させてもらい、死体解剖に関心ある渡辺くんは番外篇は乗り乗りだった。この差って何だろうと思うが、解らず仕舞いで落ち込んでしまった。原因は後年仕事をしてから、知ることになる自明のことだった。
牛込柳町の交差点にある古い雑貨店。タバコ売り場の奥にある棚の上にある、燐寸の束ごと売れ残って積み上げられたという、蒐集者にとっては伝説化している。「ハマツ、いよいよ牛込柳町へ行くか」「そうだね伝説の真偽を確かめるのに、先者勝ちの燐寸世界だし」
山手線の内側にある下町へ、地下鉄が今のように普及してなかった牛込柳町。
路面電車の停留所が1970年に廃止されて、街全体が時の埃が積もった印象、渡辺くんと二人で期待が高まる一方であった。聞いていた方向の街角に雑貨の店があったので、違いないねと伝説の地へ向かった。気難しい老婆がタバコ売り場にいて、棚の上には燐寸歴史の地層のように、見たことがない図案ラベルがいく種類も積み上げられていた。おまけに下層部には、燐寸箱が経木製のコレクターには涎物が出土する可能性が感じられた。
「あらあ、経木製かもしらんなぁ」燐寸同盟によって、ファーストコンタクトになることを考えて、勇む心を抑えた。
僕らが店にとって怪しい二人組ではない印象を老婆さんに与えて、整理不足の棚から手際良く種類多く買い付ける。上層部にも珍しい燐寸があるのだが、棚を整理して抜き出して、下層部からぼろぼろになっている戦前から終戦直後に売られていた燐寸を何セットか多めに買う交渉を進めるのだった。老婆さんは売れ残りを買いに来た学生を、好意的に受け止めてくれた。貧乏症景色たっぷり雰囲気の棚を、カメラ小僧の渡辺くんに撮影記録してもらいたかったが、両手一杯になる燐寸コレクションを手にしてその場合を去った。
「雑貨店で売っている厚箱の実用マッチなどは、台所の醤油のシミだけが目について、そこにある図柄は網膜には映っても、脳の中枢までには達しなかったのである。したがって雑貨屋にある各種のマッチは、私の頭の中の片隅に「台所用マッチ」として、ひとまとめに放り込まれていた。」(赤瀬川原平「燐寸主義序説」より)
赤瀬川原平、大平健『文学校』(岩波書店)
赤瀬川原平「考現学研究室」『現代人が古代を研究するのは難しいが、現代人が現代を研究するのはもっと難しいことである。それは現代人が現代の中にはまり込んでいるからだ。それはちょうど、自分の中に…』(美学校1983年度募集要項より)
イラストレーターでコラムニストの渡辺和博氏(ナベゾ)は、稀有な才能をもって「若者文化」のトップを切っていた人であるけれども、病いを得て数年の間、その活躍の分野を限定していた。
ソース: HB Gallery Online Shop
http://hbgallery.shop-pro.jp/?pid=40104360
1950年(昭和25年)、広島県広島市に生まれる。運動神経は鈍かったものの、子供の頃からメカ好き、オートバイ好きであった。崇徳高等学校在学時に二輪免許を取得し、自動車雑誌の購読も始めた。
1968年(昭和43年)、上京して東京綜合写真専門学校に入学。カメラマンを目指していたが中退し、1972年(昭和47年)に現代思潮社が開いた美学校(東京・四谷)へ入学し、赤瀬川原平に師事する。渡辺の渾名となる「ナベゾ」は、赤瀬川による講義の題材だった、宮武外骨による『滑稽新聞』のヘタウマな絵師「なべぞ」に由来している。
1975年(昭和50年)、美学校の先輩である南伸坊の誘いで青林堂に入社。漫画誌『月刊漫画ガロ』の編集者となり、南とともに面白ければ漫画という表現に囚われぬという誌面作り(面白主義)を打ち出し、『ガロ』の傾向を変える。
同年、南の薦めにより『ガロ』8月号掲載の「私の初体験」で漫画家としてデビュー。
その後はエロ本や、自販機本『Jam』『HEAVEN』などでも漫画を執筆。1980年(昭和55年)の『ガロ』9月号には「毒電波」という電波攻撃の被害に苦しむ人を描いた漫画を発表し、創作における「電波系」の先駆けとなった。
南の退社後は『月刊漫画ガロ』 の編集長を1年半務めたが、自らも青林堂を退社。
フリーとなり、独得の「ヘタウマ」漫画と面白エッセイで、多くの雑誌にコラムの連載を持った。
また、自らがオートバイ愛好家であることを活かし、1983年(昭和58年)にCBSソニー出版が日本語版を創刊することになったアメリカの老舗オートバイ雑誌「CYCLE WORLD」の中でも連載コラムとその挿絵を担当した。
1984年(昭和59年)、コピーライター、イラストレーター、ミュージシャンなど“横文字職業”にある人々のライフスタイルを鋭く観察した『金魂巻』を発表。「一億総中流」と言われた当時、行動すべてがプラス方向に向かい高収入を得られる金持ち「○金」(まるきん)、行動がすべて裏目に出ていつまでも底辺にいる=貧乏な「○ビ」(まるび)を対比させ、その典型像を図解し、同じ職業の中に存在する階層差・所得格差を戯画化した同書はベストセラーとなり、「○金・○ビ」は同年の第1回流行語大賞を受賞した。
1985年(昭和60年)、『笑っていいとも!』(フジテレビ)に1年間レギュラー出演。
また、また、自動車雑誌「NAVI」には創刊から連載コラムを持ち、開始時のタイトルは「やっぱり自動車は面白い」で、その後、市井の車好きに話を聞く連載「みんな自動車が好き」になった。
その連載3回目で、自動車趣味の人を表現する言葉「エンスー」(エンスージアストの略)を発明。
1989年(平成元年)からはコラムが「エンスーへの道」となり、連載は1997年(平成9年)3月号まで続いた。
1994年(平成6年)には書籍『エンスー養成講座』が刊行。これらの活動により、「エンスー」という言葉は世間に広まった。
2003年(平成12年)、肝臓癌の診断を受ける。入院後も病室にノートパソコンを持ち込み、治療と仕事を両立。さらに、医者や看護師の実態から患者のおかしな生態までを独自の観察眼で綴った闘病記録「病院観察記録」として『キン・コン・ガン!―ガンの告知を受けてぼくは初期化された』を刊行した。
2005年(平成17年)には妻から生体肝移植をうけるが、2006年(平成18年)に癌が再発。癌は後頭部まで転移し、右目は痺れて見えなくなっていた。それでも、友人である嵐山光三郎の原稿を読み、右手だけでイラストを描き続けた。2007年(平成19年)2月6日午前1時46分、肝臓癌のため東京都新宿区の病院にて死去。享年56。
「綺譚社」という出版社があった。
フリー編集者の秋山協一郎さんが主催する、刊行物は嗜好が十割くらいの内容。
高野文子さんが電話番をしてた会社。
南伸坊さんの友人であったことから、秋山さんの軽井沢別荘へ、赤瀬川さんとロイヤル天文同好会で合宿させていただきました。
Apple Paradise: OTOMO KATSUHIRO: Illustrations: Kitan (1980-81)
雑誌『綺譚』には安彦良和さんの似顔絵イラストが、南伸坊さんによって描かれている。参考写真をサンライズ作画スタジオに、撮影に来たことを覚えて不思議な御縁を感じるなぁ。
《秋山道男さんの世界》
カッコいいもの、かわいいもの、おもしろいものをたくさん作ってきた。歌劇団・天象儀館のポスター、西友ストアの『熱中なんでもブック』、チェッカーズのプロデュース、YMOの仕事、無印良品の仕事、小泉今日子の仕事など、アングラから超メジャーまで多岐に渡っているので、その全貌を捉えるのは難しい。
●スイカでもキュウリでも企画になると教えてくれた秋山道男さん。爽やかな気持ちになったり笑ったり『誤作動する脳』。
https://share.google/zJA75ZsOQQQJLrhSo
TVアニメ おでんくん (2005) - allcinema
声優さんたちがユニークなアニメ番組。
おじさん登場する絵コンテは、ぼくが担当していた。
本上まなみ, 千葉千恵巳, 佐々木望, 秋山道男, 八奈見乗児, ピエール瀧, 小日向しえ, 田中直樹, リリー・フランキー:
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70年代唐十郎の赤テントから枝分かれした「天象儀館」というミュージカル劇団を立ち上げて、銀色のテント小屋で『紅はこべ』などを演じていた。
座付き作家は荒戸源次郎さん自身であり、上杉清文さんや秋山道男さんも加わっていた。役者であり文筆家であり、ビジュアルもする才気ある人たちが集ってた。
今のクリエイター業界では、分業化がされてしまい、此の様な偉業をみることはなくなってしまった。
「一枚のポスターで、蘇る記憶がある!」
●秋山道男 編集の発明家
TOKYO CULTUART by BEAMS(トーキョー カルチャート by ビームス)|BEAMS
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■依頼劇評■【『此処か彼方処か、はたまた何処か?』作:上杉清文、内山豊三郎 演出:大岡淳】赤飯を炊きたいくらいの精神の運動――― 上杉清文Works連続上演へ急げッ! ――秋山道男さん | 劇評講座
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秋山道男 - Wikipedia